反ロサス同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/07 17:22 UTC 版)
ブラジル政府は反ロサス同盟の結成に動き、全権代表オノリオ・エルメト・カルネイロ・レオン(後にパラナ侯爵)と補佐官のジョゼ・マリア・ダ・シウヴァ・パラーニョス(英語版)(後にリオ・ブランコ子爵)率いる代表団を派遣した。その結果、ブラジルはボリビアと条約を締結した。ボリビアは国境の守備を強化してロサスによる攻撃を止めることに同意したが、対アルゼンチン戦争で軍を派遣することは拒否した。 孤立主義をとったパラグアイとの接近はより難しかった。しかし、ブラジルが1844年にパラグアイの独立を正式に承認すると(初の外国による独立承認)、両国は急接近した。ブラジル駐パラグアイ大使ジョゼ・アントニオ・ピメンタ・ブエノ(ポルトガル語版)はパラグアイ大統領カルロス・アントニオ・ロペスの顧問官に就任するまで至った。1850年12月25日にはブラジルとパラグアイの防衛同盟が締結され、ロペスが軍馬の提供に同意した。しかし、エントレ・リオス州知事フスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)が1839年と1845年にウルグアイに侵攻したため、パラグアイはウルキーサがパラグアイを併合しようとすると考え、軍隊の派遣を拒否した。 ブラジルはウルグアイ内戦にも介入した。カシアス伯爵ルイス・アルヴェス・デ・リマ・エ・シルヴァがリオグランデ・ド・スル州知事に就任、同州に駐留したブラジル陸軍4個師団の指揮を執った。1849年より、ブラジル政府はモンテビデオで包囲されていたコロラド党の政府に直接援助を与え、1850年9月6日にはウルグアイ代表アンドレス・ラマス(スペイン語版)がイリネウ・イヴァンジェリシュタ・デ・ソウサ(英語版)(後にマウア子爵)と協定を締結、ソウサの銀行を経由してコロラド党政府に送金した。ブラジルは2年以上秘密裏にコロラド党を支援したが、1851年3月16日には公的にコロラド党政府への支持を表明した。アルゼンチン政府はこれをみて動員を開始、戦争を準備した。 ブラジルはアルゼンチン国内の反ロサス勢力にも接触した。1851年5月1日、まだフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)の統治が続いていたエントレ・リオス州はロサスに対し、「ブエノスアイレス知事に委ねられた主権と権力の行使権を取り戻すことが人民の望みである」と宣言した(ウルキーサ宣言(スペイン語版))。ベンハミン・ビラソロ(英語版)が統治したコリエンテス州も同様に宣言した。ブラジルは両州の蜂起を支持、資金援助を行った。ウルキーサがロサスを裏切った理由は長期間の敵対によるものだった。ロサスは1845年以降、ウルキーサが自身の打倒をもくろんでいると疑って彼を失脚させようとした。これがブラジルによる軍事介入の引き金になり、ブラジルは艦隊をラ・プラタ地域に派遣、モンテビデオ港の近くを基地とした。ブラジル独立戦争(英語版)とシスプラティーナ戦争を戦ったイギリスのジョン・パスコー・グレンフェル(英語版)海軍少将が艦隊の指揮官に任命された。艦隊は5月4日にモンテビデオに到着した。艦隊の構成はフリゲート1隻、コルベット7隻、ブリッグ3隻、蒸気船6隻だった。なお、1851年時点のブラジル海軍は武装帆走軍艦36隻、武装蒸気船10隻、非武装帆走艦7隻、帆走輸送船6隻を有していた。 1851年5月29日、ウルグアイ、ブラジル、エントレ・リオス州とコリエンテス州が反ロサス同盟を結成した。同盟条約では同盟の目的をウルグアイの独立を守ること、ウルグアイの平和回復、そしてオリベの軍勢の追放と定めた。ウルキーサがアルゼンチン軍を指揮、エウヘニオ・ガルソン(スペイン語版)がコロラド党の軍勢を指揮した。両軍ともにブラジルからの資金援助と軍事援助を受けた。 その後、1851年8月2日にはブラジルの第6散兵大隊300人で構成された派遣軍の初動部隊がウルグアイに上陸、セロ港(Fuerte del Cerro)を守備した。ロサスは8月18日にブラジルに宣戦布告した。
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