反ロシア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 04:21 UTC 版)
ロシアは、1801年にはイランのカージャール朝を破って東グルジア(カルトリ・カヘティア)を併合し、南カフカスまで勢力を広げた。こうして1828年までにオスマン帝国領のアジャリア(グルジア南西部)を除くカフカスのほとんど全域がロシアの支配下に入るが、その中で北カフカスにあってロシアの支配に対して激しく抵抗したのが、チェチェン人をはじめとする、ダゲスタンとチェチニア(露: чечня、英: Chechnya、現在のダゲスタン共和国西部からチェチェン共和国にかけての一帯)の人々であった。 チェチェン人は19世紀前半までにイスラム教のスンナ派が支配的な宗教となり、イスラム神秘主義のナクシュバンディー教団の導師たちが社会の指導的な地位につくようになっていた。チェチェニアやダゲスタンの人々は、このようなイスラム神秘主義教団の組織力と結束に支えられて、ロシアに対する抵抗を頑強に続けたのである。この運動のことをミュリディズムという。 1785年には、チェチェン人の導師シャイフ・マンスール(英語版)が行ったロシアに対する組織的抵抗がミュリディズムの先駆となった。ロシアは、1818年にはチェチニアの真っ只中にグロズナヤ要塞(現在のグロズヌイ)を建設し、チェチニヤ支配を進めようとしたが、1830年には東部コーカサス地方のダゲスタンとチェチニヤにイマーム国(英語版)と呼ばれる政権を建設し、25年にわたって自立を維持し、抵抗した(コーカサス戦争)。1834年には内部分裂してイマーム(宗教指導者)が暗殺され、親イマームにシャミールが就任したが、クリミア戦争後の1859年に降伏、チェチニヤとダゲスタンは最終的にロシア帝国に併合された。
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