反ラスプーチン機運の増大
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「グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「反ラスプーチン機運の増大」の解説
1915年8月19日、アレクサンドラ皇后とラスプーチンの醜聞を新聞に持ち込もうとしたドズコフスキーとウラジーミル・オルロフが罷免された。ニコライ2世は以後、アレクサンドラとラスプーチンの関係を議論することを禁止した。8月23日、ニコライ2世は士気を維持するため親征を行いペトログラード(ペテルブルクから改称)を離れ、内政はアレクサンドラと彼女が相談役としたラスプーチンが担当することになった。これに対し閣僚たちから反対意見が出たが、首相のゴレムイキンは罷免を示唆して反対意見を封殺した。これに対し、対抗処置としてドゥーマが9月3日に無期限の休会を宣言し、ゴレムイキンは1916年2月2日に辞任した。再開されたドゥーマでは、ワシーリー・マコラコフ(英語版)が「現在のロシアは狂った運転手がブレーキも踏まずに狭い山道を走っているようなものだ」と発言するなど、アレクサンドラとラスプーチンへの批判を強めた。 ニコライ2世の親征後、アレクサンドラは政務に追われラスプーチンと会う機会が減ったが、手紙や電話、週に一度行われる謁見を通してラスプーチンに意見を求めた。これにより、アレクサンドラに対するラスプーチンの影響力は拡大した。1915年後半に二人は前線にいるニコライ2世に助言を行い、12月にラスプーチンはアレクセイの治療を行った。1916年2月2日、ラスプーチンの支持者であるボリス・スチュルメルが首相に就任した。この頃、内務大臣アレクセイ・フヴォストフとベレトスキーがラスプーチン暗殺を計画し、同時に「アレクサンドラとラスプーチンはドイツのスパイである」という噂を流した。3月3日、噂を流したことが露見したフヴォストフは罷免の上財産を没収され、スチュルメルが内相を兼務することになった。 11月、ドゥーマが開会されると、ミリュコーフはアレクサンドラ、ラスプーチン、スチュルメルを「ドイツに味方する勢力の裏切り」と弾劾した。ミリュコーフはスチュルメル内閣の政策をドイツへの利敵行為と訴え、演説の中で「これは愚考なのか?裏切りなのか?」と繰り返し、議場からは「愚考だ!」「裏切りだ!」「両方だ!!」と賛同の声が挙がり、弾劾演説の内容は国内や前線に配布された。また、ウラジーミル・プリシケヴィチ(英語版)も議会でアレクサンドラとラスプーチンを弾劾し、「皇帝の大臣たちは皇后とラスプーチンの傀儡となっている」「ラスプーチンが生きている限り、ロシアは勝利できない」と演説した。 議員だけではなく貴族たちからも批判の声は高まっていた。ニコライ・ミハイロヴィチ大公によると、ゲオルギー・リヴォフとミハイル・アレクセーエフは機密情報をアレクサンドラとラスプーチンが独占していると考え、アレクサンドラをリヴァディア宮殿又はイギリスに追放することをニコライ2世に進言したという。また、ユスポフはドミトリー大公と共にラスプーチン暗殺を計画し、プリシケヴィチと接触し同志に引き入れた。グチコフはアレクサンドル・ケレンスキー、アレクサンドル・コノヴァーロフ(英語版)、ニコライ・ネクラーソフ、ミハイル・テレシチェンコら進歩的ブロック(英語版)のメンバーと共にクーデターを計画するが、協力を求めたニコライ・ミハイロヴィチ大公に「軍が支持しないだろう」と拒否され未遂に終わった。アレクサンドラはこれらの動きに対し、リヴォフとグチコフをシベリアに追放することをニコライ2世に求めた。
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