クリミア戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 17:22 UTC 版)
「ポーランド立憲王国」の記事における「クリミア戦争後」の解説
クリミア戦争の最中にニコライ1世は病死し、長男アレクサンドル2世がロシア皇帝に即位した。戦争自体は引き分けの形に持ち込むことができたものの、ロシアの後進性を悟ったアレクサンドルは、ロシアの近代化改革に着手することになった。 アレクサンドル2世は農奴解放令など、ロシアにとって画期的な政策を打ち出したが、実際にはロシアの農民は非常に貧しかったので、ミールと呼ばれる農村共同体に従属して耕作せざるを得ない者がほとんどであった。 また、エカチェリーナ2世の改革にもみられるように、「上からの」改革は被支配階層のさらなる示威行動を引き起こし、結果として反動専制政治に逆行する危険性を持ち合わせている。この場合も、アレクサンドルの自由化改革に乗じて、1863年1月ポーランド貴族(シュラフタ)は民族蜂起を起こした(一月蜂起)。だが運動は鎮圧され、かえって専制政治が強化された。このような状況下でスウェーデン=ノルウェー王カール15世はポーランドの情勢に心を痛め、また隣接する大国ロシアを牽制する意図もあり、フランスなどにロシアに対する十字軍を立案したが、この計画は自国政府によって破棄された。また、欧州諸国もポーランド人の救済に手をかざすことはなかった。
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