北魏による「流刑」の導入
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北魏の太和16年(492年)、孝文帝の下で新たな律が定められ、ここで初めて後世知られるような主刑としての「流刑」が登場する。新しい律はこの年の4月に制定されたが、翌月になって孝文帝が詔によって自ら追加したのが流罪の規定であったという(『魏書』巻7下、高祖紀)。北魏では前代以来の徒遷刑が文成帝の時代に終身刑の要素を加えた代替刑「徒辺」として実施されていた。が、ここにおいて主刑としての流刑が登場して死刑の次に重い刑として位置づけられたのである。 その後、北魏は分裂して北斉と北周となるが、北斉では労役として配流先での戌辺(兵役)と組み合わされ、北周では罪の重さによって流される距離に差異を置く規定(北周では5段階)が加えられた。両国に代わって北朝を再統一した隋が流罪を1つの体系の元に整理し、更に南朝を征服してその支配地域にも流罪を適用していくことになる。隋の制度では北斉・北周の制度を受け継ぎつつも、いくつかの手直しも図られた。まず、罪によって配流する距離を3段階(千里・千五百里・二千里)に整理して、また配流先での居作(兵役を含めた労役)も最高3年(徒刑における最高刑と等しい)を併せて課した。その上で一度配所に到着した流人は恩赦があっても特別なこと(流人の帰還が明記されているなど)がない限りは郷里への帰還が許されなかった。また、事情によっては居作は課すものの、配流を行わずに罪に応じた杖刑によって代替されるケースもあった(隋独自の規定である。以上、『隋書』刑法志)。北魏から隋にかけて、戸籍などが整備されて民を特定の居住地に拘束して他の地域への自由な移動が禁止される(役人や商人などにならない限りは一生故郷で過ごす)ようになった状況下で、見たことも無い他の土地へ強制的に移されることは威嚇効果としては相当のものがあった。また、本来死刑と徒刑などの労役刑との中間の刑罰にあたる肉刑の復活が困難な状況において、儒教の経典である『尚書』の故事を根拠として用いることが可能な(儒教道徳的見地から批判される可能性が低い)流刑を新たに導入することで死刑と労役刑の間の大きすぎる格差の解消をもたらす意味もあった。
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