北魏〜北朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:59 UTC 版)
その後の五胡十六国時代を経て、中国北部を統一して北朝最初の王朝となった北魏は、律令制の形成に大きく貢献した。北魏はまず、人民を体系的に支配するために三長制という地方行政制度を実施した。これにより、租税の徴収や戸籍の作成を一律的に行うことができるようになった。第6代皇帝の孝文帝は、三長制の成果を前提として、均田制と均賦制を実施した。これは、一律に耕作地を支給し一律の基準で徴税を行うというもので、これにより律令制の基礎形成が完了したとされている。なお、均賦制は夫婦に対して課税することとしていたため、課税単位の中心が戸単位から夫婦単位へと移行した。北魏の次の西魏では、兵戸制に代わって府兵制という兵農一致を原則とする新たな兵制が生まれ、その次の北周は、儒教教典の周礼に基づいて三省六部の官制を整備し、租庸調と呼ばれる税制を開始した。その後の北朝の諸王朝もまた、これらの制度を継承した。律令制の形成は北朝を主舞台としていたのである。北朝はこれらの制度を背景に国力を増強していき、次第に南朝を圧迫していった。
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