北魏での隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 04:34 UTC 版)
北朝を統一した北魏は、五胡十六国の頃から漢化政策に積極的な王朝であった。統一後もその路線を取り続け、なかんずく第6代皇帝の孝文帝は平城から漢民族王朝伝統の首都・洛陽に遷都し、姓名や官職名、習俗や言語に至るまで徹底した漢化を進めた。また漢化と人心統一の二つの効果を狙って漢民族の宗教である仏教に深く帰依し、多くの寺院や仏像を建立した。 これに後押しされる形で、六朝楷書が爆発的な発展を遂げることになった。特に書風は漢化政策の影響で、当時既に楷書が一書体として確立していた南朝の書にある程度まで学び、それを彼らなりに消化したことにより、西晋代のスタイルを引きずっていた状態から脱皮して独自の個性が確立されるようになる。 このような書蹟は、紙にあまりなじみのなかった北朝では写経を除いて紙に書かれることは少なく、碑や磨崖、造像記や墓碑などの金石文の形で残され、後世に「北碑」と呼ばれる巨大な書蹟群を造り上げることになった。 この時期、5世紀末から6世紀初頭までの期間が六朝楷書の最盛期であった。
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