北漢
北漢
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劉継元(北漢英武帝)(演:鄒東孝) 北漢の第4代皇帝。英明で見識の深い君主。劉鈞の養子。劉継恩の同母異父弟。 異父兄の皇帝・劉継恩が殺害された後、宰相・郭無為によって擁立され、皇位に就いた。冤罪で牢に収監されていた楊継業を完全に許し、大将軍に抜擢。さらに遼(契丹)にも援軍を求め、宋の攻撃に頑強に対抗した。宋が太原を水攻めしたときは、自ら陣頭指揮を執り、懸命に対処に当たった。 劉鈞(北漢睿宗)(演:程雨軒) 北漢の第2代皇帝。したたかで狡猾な性格の君主。劉崇の息子。 宋朝成立直後、呂余慶が和平の使者として北漢を訪れた際、口だけは友和を承諾したが、実際は嘘を付き、反乱軍の李筠と手を組んで宋を攻撃しようと図った。そして、自ら5000の援軍兵を率いて澤州に赴いたが、味方した李筠側が不利だと悟り、2000の兵を率いていち早く本国へ退却。3000の兵を宰相・衛融に預けて澤州に残し、事態を静観した。 楊継業(劉継業)(演:趙振坤) 北漢の名将・大将軍。北漢の忠臣。異名は楊無敵。趙匡胤が「北漢攻めにおける最大の強敵」とひどく恐れ、「自身の部下にしたい」と望んだほどの猛将。 後に宋太宗(趙光義)に仕える。『楊家将演義』の主人公の一人・楊業として後世非常に有名だが、作中ではまだ北漢に仕える武将。 呂余慶が太原に使者として赴いた際、群臣の中の先頭に紛れている。 西暦969年、供奉官・恵磷の策に掛かって牢獄に収監されていた。だが、承旨学士・李惲の建言により牢から釈放され、皇帝・劉継元によって冤罪を完全に許された。それに加え、国姓である「劉姓」を授かり、また建雄軍節度使に任じられ、北漢の大将軍に復帰した。 対宋戦では、南面行営都部署として京城の2万の兵を率い、主将として宋軍に応戦した。 まずは、宋の先鋒・李継勲の大軍の撃退に成功。また、団柏谷において趙匡胤が率いる宋の本軍に奇襲攻撃を仕掛けた。団柏谷で敗れた後は、太原へ繋がる要道・汾河橋にて再び堅く守りに徹し、宋軍に勇敢に抗戦。汾河橋で敗れた後は太原に退くも、宋軍の猛攻に対し大いに善戦し、1か月以上太原を守り抜いた。 宋が北漢に最後通牒を突き付け、水攻めを予告した際も、怯まず徹底抗戦を唱えた。 郭無為(中国語版)(演:邱雲鶴) 北漢の宰相。 劉鈞によって宰相に抜擢され、政務を司った。劉鈞の死後即位した劉継恩との間に確執が生じ、激しく対立するようになった。そして、友人の供奉官・恵磷に唆されて、劉継恩を裏切り、宋側の内応者になりかけた。 だがその後、暗君・劉継恩が近臣に殺害されると、その不慮の死に乗じて聡明な皇子・劉継元を新帝に擁立した。 劉継恩とは対立するも、自分の推戴した新帝・劉継元には厚く忠誠を誓っていた。劉継元の即位後は宋の内応者をやめ、しばらくは主君・劉継元のために力を尽くして働いていた。 しかし、宋が北漢に最後通牒を突き付け、水攻めを予告したことで、流石に怖気付き、皇帝・劉継元に対して宋への降伏を強く説いた。そして、自分の説得を劉継元に飲ませるべく、もっともらしく死諫のふりをしようとしたが、承旨学士・李惲にこの芝居を見破られ、彼に本当に殺されてしまった。 李惲(演:于従海) 北漢の重臣。承旨学士。北漢の忠臣。 冤罪で牢に収監されていた将軍・楊継業の潔白を主張し、主君・劉継元に対してその再起用を強く説いた。また、劉継元の命を受け、使者として遼の都・上京に赴き、遼穆宗(耶律璟)に謁見。巧みに耶律璟を説き伏せ、これによって北漢は遼国の援軍を得ることに成功した。 宋が北漢に最後通牒を突き付け、水攻めを予告した際も、怯まず徹底抗戦を唱えた。そして、宋への降伏を強く唱える宰相・郭無為の死諫の芝居を見破り、自身の手で郭無為を誅殺した。 恵磷(演:王輝) 北漢の大臣。供奉官。衛融の従弟。宋の北漢攻めの際の内応者。 同窓の友人である宰相・郭無為の推薦を受けて、供奉官となった。早くから北漢を裏切り、従兄・衛融を通じて宋に投降。宋の内応者として働き、宋側に北漢の内部情報を盛んにリークした。また、北漢の朝廷にあって盛んに内応工作を行い、宰相・郭無為ら朝廷の大臣たちに対し、宋への帰順を説いて回った。 しかし、宰相・郭無為が李惲に誅殺された後、宋との内通が露見し、裏切り者として同じく誅殺されてしまった。
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「楊家将 (北方謙三)」の記事における「北漢」の解説
劉鈞 北漢皇帝。 郭有儀 廷臣。 宋斉丘 楊家に対して好意的な廷臣。 丁貴 廷臣。
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北漢の元号 乾祐(951年-956年):後漢の年号を継続させて使用。 天会(957年-973年) 広運(974年-979年)
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