前史 - 大滝橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 00:13 UTC 版)
「白鳥橋 (荒川)」の記事における「前史 - 大滝橋」の解説
橋が架けられる以前は「はかぜの渡し」と呼ばれる渡船場で対岸とを結んでいた。また、渇水期である冬季から春季にかけては渡船場に長さ13間(約23.6メートル)、幅4尺(約1.2メートル)の土橋を架けていた。 明治時代に白鳥橋の前身である丸木橋の「大滝橋」が、荒川のこの周辺では川幅が最も狭くなっている地点である、現在の樋口駅近辺に架けられていた。この大滝橋はこの地域では荒川に架かる唯一の橋で、その外見から地元住民により俗に「むかで橋」と呼ばれていた。橋の造りは2本の杉の丸太を岩と岩の間に渡し、2本の丸太の間に細い木の棒を丸太の下側に横に渡して結び付け、丸太の間の木の棒の上に渡り板を敷いて縄で固定するものであった。橋の材料の調達は個人所有の山から買い出した。橋の幅は尺五寸(約45 cm)で水面に近い位置に架けられていたため、増水すると川幅が狭いこともあって流速も速く、容易に流されたいわゆる流れ橋である。増水して橋が流されそうになったら橋番は丸太の元の部分を河岸の立ち木に縄で結びつけた後、橋番の通達で岩田中郷地区総出で引き上げた。この作業は雨の降る中、夜分であっても松明を焚いて行われた。減水して橋の復旧の際は岩の上に丸太を降ろし、丸太の元の部分を結び付けた縄を対岸に渡し、丸太を一本ずつ梃子を使いつつ対岸の滝の上地区の住民に縄を手繰り寄せるように引っ張ってもらい、最後に渡り板を敷くための細い棒を組み直した。夏季はこのような作業をたびたび繰り返すが、唯一の橋であることもあり、時間と労力を惜しまなかった。 明治の末期は自転車の普及に伴い、以前のままでは幅が狭く通行も危険なので架け替えることとなり、その名も「大滝三本橋」と改め、丸太を3本並べてその上に渡り板を並べる様に改造されたことにより、幅も広くなり自転車を押して渡ることもできるようになった。合わせて両岸に取り付け道路を作ることとなり、岩の上に自然石をセメントで高く積み上げた橋脚を立てて橋面と水面との間の高さを高くし、道路の橋への勾配を緩和した。これにより利便性が向上しある程度の増水には対応できたが、更なる増水で水没する際は流水抵抗を軽減するために板外しを行うが、豪雨と強風下の中での板外しのは命がけの作業で、作業中に濁流に投げ出されて死亡した実例もあった。また、橋を固定する綱が切れて流失することもあり下流に回収に向かうが、遠く畠山(現在の六堰付近)まで回収に出向いた場合もあった。橋が流失した際は場合によっては10日間以上対岸との交通が途絶え、無理に川を泳いで渡ろうとして対岸にたどり着けず、命を落とす事例もあった。なお、橋が長期に亘り不通となった際に備えて、橋の近くに物資を荒川の対岸に運搬する索道 (野猿) のような設備が地元企業の発案で設置されている時期があった。この大滝三本橋は白鳥橋の架設により廃止され、現在は樋口駅付近の荒川の河岸や河道に大滝橋の橋台や橋脚が遺構として残されている。
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