前史 技術開発者マキノ
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「マキノトーキー製作所」の記事における「前史 技術開発者マキノ」の解説
マキノの父・牧野省三は早くからトーキーに取り組んでおり、マキノ・プロダクション時代の1929年(昭和4年)にはディスク式トーキー作品『戻橋』(監督マキノ正博)を製作、全国的なヒットを生んだが、興行の現場では映写技師がシンクロに苦労し、苦情が殺到していた。 1931年(昭和6年)に松竹が「国産初のトーキー映画」とされる『マダムと女房』(監督五所平之助)を発表、翌1932年(昭和7年)から松竹、日活、月形陽候プロダクション、片岡千恵蔵プロダクション、新興キネマ、新映画社[要曖昧さ回避]、音映の各社が数本ずつのオール・トーキー、サイレント映画にトーキー部分を織り込んだパート・トーキー、サイレントに音楽や活弁を収録したサウンド版を製作しはじめた。 1933年(昭和8年)、マキノ正博は、亡くなった父・省三の代からの横田永之助との確執から日活を馘首された。これからはトーキーだと確信していたマキノは、退職金の2,000円(当時)の半分を握って上京、日本国粋会の太田進一率いる牛込区神楽坂(現在の新宿区神楽坂)の音映で、同社の技術スタッフたちとともに録音・撮影機材の研究・開発に没頭した。新機材を開発したマキノは、音映の京都支社を新設して、録音技師として各社の下請けをし、録音技術の研鑽を積んだ。 1935年(昭和10年)、神戸の千鳥興業の専務取締役宗田政雄が京都のマキノを訪れ、「月間トーキー2本、サウンド版2本、年間48プログラム」の生産ペースを前提に、配給と製作費の出資をする旨の申し入れをした。ついては12月中旬から第1作を公開したいので、11月からクランクインしてほしいというこの申し入れに、マキノは考え込んだが、笹井末三郎が撮影所用地を調達して励まし、マキノはついに新会社設立の決意をした。
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