初期の雷撃用艦上攻撃機
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創成期に、横須賀工廠の造兵部は飛行機を造り、造機部はエンジンを造った。しかし航空機用鋼材の熱処理一つとっても情報がなく、グラインダー工具も買い集めることから始めるなど苦労の連続だった。将校が飛行器操縦を習得し、さらに飛行器制作にまでも挑んでいた。とにかく航空機が制作できるようになったのは1914年(大正3年)夏ごろからだった。当時の工廠の飛行機生産能力は1か月「2台」だった。 その後の海軍航空では、外国製機材の模倣の繰返しに飽きた1928年から1937年の日中戦争勃発までの10年間は、次第に外国依存を捨てて国産の研究、開発、生産技術を充実させることに努力した時期であり、航空機の開発設計技術が徐々に欧米の水準に接近した。このために、新機の設計採用に際しては、特定1社指定で設計させる、複数社で競争設計させるなど試行した。1931年(昭和6年)にはあえて「設計者は日本国民に限定し、外国人の助けを排除する」という制令まで設けて国産技術発達を促進した。 1924年以降、太平洋戦争開始前までの雷撃機(攻撃機)を示す。 一三式艦上攻撃機 三葉式の一〇式艦上雷撃機を基に複葉に再設計した初の本格的攻撃機。操縦性は良好で、長く使用された。 八九式艦上攻撃機 鈍重かつ高価で不評のため、まもなく姿を消した。 九二式艦上攻撃機 一三式艦上攻撃機の各部を大幅に改良したもの。 九三式艦上攻撃機(別名九三式陸上攻撃機) 大型航空母艦用の大型双発艦上機を目指したが、艦載の実用の域に達せずに姿を消した。 九六式陸上攻撃機 1936年(昭和11年)に誕生した日本の飛行機設計史上の飛躍となった航空機。単葉の先進的な設計で、飛行速度も高速、さらに機体重量の半分の搭載量を誇る画期的な航空機であり、陸上基地からの長距離渡洋攻撃を可能にした。 九六式艦上攻撃機 1936年(昭和11年)11月に制式採用された羽布張り複葉固定脚機。後述の九七式艦上攻撃機が成功した事で生産機数は200機程。 九七式艦上攻撃機 上記の翌年の1937年に、当時の世界水準を抜きん出た九七式艦上攻撃機(B5N)が出現した。 天山艦上攻撃機 1941年に誕生した、上記の九七式艦上攻撃機より、最高速度が100km/hほど早い高性能の艦上攻撃機。終戦時まで、改良と生産が続けられていた。 流星艦上攻撃機 上記の翌年の1942年末に初飛行を遂げた、急降下爆撃が可能な大日本帝国最後の艦上攻撃機。攻撃機としては、急降下爆撃が可能で、抜群の高速性能と運動性能を持つ傑作機である。急降下爆撃が可能であるが、「攻撃機」と機体分類されている。非常に高性能であったが、量産化の難航や戦況の悪化によって、わずか114機しか生産されなかった。
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