伊予金子氏とは? わかりやすく解説

伊予金子氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 04:47 UTC 版)

金子氏」の記事における「伊予金子氏」の解説

伊予金子氏(いよ-かねこ-し)は、家忠の保元の乱・平治の乱などでの功績による恩恵を受け、建長年間金子氏家範曾孫広家が伊予国新居郡領地移り住んだことに始まる。広家は領地金子名付け平野遠く見渡せ丘陵地金子山)に金子城築いてその基礎固めた新居一帯伊予国の有力豪族河野氏讃岐国細川氏がせめぎ合う激戦地であったが、南北朝時代将軍 足利義満によって和睦成立し金子氏細川氏配下になったと見られるその後戦国時代になると石川氏新居宇摩治めるようになり、金子氏はその有力武将として石川氏支えて発展したという。 戦国時代後期土佐長宗我部元親四国制覇乗り出した時には石川氏弱体化して名目上領主でしかなく、金子元宅金子備後守元宅)が事実上支配者であったものと見られている。長宗我部元親金子元宅通じて石川氏と結びこの一帯覇権を手にした。しかしそれも束の間羽柴秀吉による全国統一向けた四国攻め始まった天正13年1585年秀吉配下小早川隆景率い毛利軍瀬戸内海渡り新居上陸し、これを金子元宅配下武将従えて迎え撃つ天正の陣)が、圧倒的な兵力の差の前に野々市ヶ原の戦いで討ち死にした。弟の対馬守春に託され金子城落とされ、約330年にわたる伊予金子氏の新居郡における歴史幕を閉じた金子氏居館跡には1618年元和4年)に、天正の陣生き延び出家した金子春により歴代城主武将弔う菩提寺として慈眼寺建立され、今に至るまで守られ続けている。また僅かに残った一族長宗我部元親保護され徳川幕府による大坂夏の陣において豊臣方につくが敗れその後九州天草の地に根付いたとも云われている。また、土佐山内氏仕え、後に商人となった一族末裔鈴木商店番頭として辣腕振るった金子直吉出ている。

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