天正の陣とは? わかりやすく解説

天正の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/18 02:56 UTC 版)

天正の陣(てんしょうのじん)は、1585年(天正13年)に全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命を受けた毛利氏小早川隆景率いる軍勢が伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸し、金子城城主金子備後守元宅率いる地元勢力との戦い。「天正の陣」の呼称は伊予側からのものであり、それぞれに金子城の戦い高尾城の戦いなどとも称する。秀吉による四国攻め(四国平定戦)の一連の戦いのなかのひとつ。




「天正の陣」の続きの解説一覧

天正の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:22 UTC 版)

金子元宅」の記事における「天正の陣」の解説

天正13年1585年)の羽柴秀吉四国攻め(天正の陣)の直前妻の実家石川家中で毛利軍との和戦議論が行なわれた際、「昨日長宗我部従い今日小早川に降る。土佐人質見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。」「勝負は時の運なり、死力尽くして一戦交えて、刀折れて尽きる迄身命を賭して戦うべし」と元宅は敵に臆することなく戦い決意する羽柴秀吉の命を受け圧倒的な兵力数(3万人)で瀬戸内海渡り侵攻してきた小早川隆景率い小早川毛利軍総勢2千とも云われる金子軍が迎え撃った岡崎城金子城などが陥落する中、元宅は氷見の高峠城に入り敵の大軍迎え撃つべく残党兵高尾城集結させた。高峠城主石川備中守をはじめ金子高橋松木藤田菰田野田近藤・塩出・徳永真鍋・丹・久門・難波江などが高尾城拠って抵抗した全軍指揮をとったのは元宅であり、総勢6百程であったとされている。 小早川毛利軍多勢対し最期悟った元宅は自ら高峠城に火を放ち百人程で野々市ヶ原に打って出奮戦その生涯終えた小早川隆景は元宅らの見事な散り様を称え将兵たちの亡骸向かって合掌し、鎧の上法衣置いて自ら弔いの舞を舞ったと言われ居合わせた将兵の舞に合わせた拍子がトンカカと聞こえた事から、トンカカさんという踊り生まれたとされるその後供養のために金子山麓金子氏居住跡に元和4年1618年)頃に元宅の実弟である金子春によって慈眼寺建立された。

※この「天正の陣」の解説は、「金子元宅」の解説の一部です。
「天正の陣」を含む「金子元宅」の記事については、「金子元宅」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「天正の陣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「天正の陣」の関連用語

天正の陣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



天正の陣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの天正の陣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの金子元宅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS