人権争議
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1954年12月、千土地興行労組はストライキを決行。折しも大阪歌舞伎座で公演中であった新国劇の芝居の途中で突然労組委員長が花道に現れ、スト決行を宣言すると緞帳ならぬ防火シャッターが下りて、芝居は中断されたまま打ち切りとなった。怒った観客は猛抗議をするも、新国劇島田正吾も「こちらもやりたいが、幕が開かねば芝居が出来ぬ」と陳謝。労組の行き過ぎた手法に批判が高まり、激怒した観客の手によって労組委員長は花道から引きずり下ろされた。事の発端は一部職員の雇用条件格差解消を求めた事にあり、特に劣悪な条件で従事していた劇場庶務の一般職の待遇改善を強く求めたことにある。これに、業績悪化に伴う低賃金解消の要求を併せて組合側は労使交渉に及び、加えて越年資金を確保せんと奮闘した。代表取締役に就任したばかりの松尾國三はこの要求を呑んだものの、労組は第一組合と第二組合に分かれており、相互にいがみ合っている関係であったが、松尾は交渉の場に双方の同席を求めた。しかしながら第一組合は第二組合の解散を強く要求し、かつ松尾側が要求した「年末年始は争議交渉を行わない」を一蹴。これを受けて松尾は先の交渉を白紙撤回すると通告したため、遂にストに突入した。松尾としては、大阪総評や産別会議が後ろ盾になり、かつ組合専従者が共産党員であるなど急進的といわれた千土地労組の要求を呑むことは経営危機に繋がると考え、頑として撥ね付けた。組合側は大阪歌舞伎座の前に「松尾國三の墓」「松尾國三の棺桶」を設置して連日シュプレヒコールを上げていたが、松尾も交渉の場で「諸君達は『生活が苦しいから給料を上げろ』と言っているが、見たところきちんとした身なりをしているではないか。私など本当に困窮したときは、足に墨を塗って靴を履いているように見せかけ、誤魔化したものだ。それに比べれば諸君達は相当文化的な生活をしており、本当に生活に困っているのかどうか疑問である。」と応戦した。自身の旅役者時代の苦労話を元にした、半ば屁理屈とも言えるこの回答には労組側も呆気にとられたという。千日前商店街の営業妨害にもなっていたこのストを解決すべく、大阪府知事や大阪府警本部長のほか、松尾の興行人脈より田岡一雄らの親分衆や笹川良一等が調停を買って出たが松尾はいずれも断った。労組内部でもやがて、ストを巡って従業員間でも意見が対立し、第二組合、第三組合、OSKの組合の間で事態は混迷を極めたが、このスト中に会社側は管理職を動員してアシベ劇場にて江利チエミの実演興行を強行した事で紛糾。1955年1月5日に漸く組合側が調停を受諾して解決した。
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