京都市動物園でのエピソードとは? わかりやすく解説

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京都市動物園でのエピソード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 04:04 UTC 版)

ぼく 生きたかったよ…〜くまのおやこ ニコーとリコー〜」の記事における「京都市動物園でのエピソード」の解説

京都市動物園開園当初から1962年4月までの名称は京都市紀念動物園)は日本国内では恩賜上野動物園についで歴史のある動物園で、1903年4月開園した開園当時は、ウマシカタンチョウなどの61238点と動物種類も数も少なかったその後園内での繁殖日本国外からの動物購入譲渡などによって、1940年にはその種類と数209種965点まで増えていた。しかし、1945年後には72274点と動物種類と数大幅に減少している。その理由には、第二次世界大戦の影響による飼料不足に起因する栄養失調加えて、軍の命令による猛獣処分があった。 1941年12月太平洋戦争始まった京都市紀念動物園開園続け、翌1942年まで春季夜間開園行われていた。しかし1943年4月所轄である川端警察署から空襲警報発令時には臨時閉園するようにとの指示出された。 その時期には、日本各地閉園する動物園猛獣処分せざるを得なくなった動物園出始めていた。東京では、1943年8月16日東京都長官大達茂雄によって恩賜上野動物園猛獣27頭の処分命令下され8月17日から9月23日にかけてライオン・トラ・ヒョウ・クマ・ゾウなどが処分された。京都に近い大阪市立動物園(現:天王寺動物園)では1943年9月4日から翌1944年3月15日の間にライオン・ヒグマ・ホッキョクグマなど1026頭が処分されている。 京都市紀念動物園では、動物たち飼料確保のために園内空き地近く土地開墾して畑にするなどの措置講じるなどの努力絶え続けられていた。1944年1月には新聞記者からの問い合わせに対していまのところ猛獣処分考えていない」と園側が回答している。 しかし、その問い合わせから2か月ほど経過した同年3月12日突如軍から「本日午後三時猛獣たちを処置せよ」との命令下った急な話のことで園側はせめて1日猶予をと懇願し翌日から処分作業開始されることになった最初に銃殺されたのは、2頭のアカグマヒグマであった。1頭は1931年1月25日生まれオス無名)、もう1頭は1921年7月30日生まれメスニコー)だった。2頭はの外から銃弾撃ち込まれ血まみれになって横たわった翌朝、2頭を運び出すために行った職員たちは、死んだはずのクマまばたきをしたのに気づいて驚愕した職員たちは、やむなく2頭の首にロープ針金とも)を巻き付けて締め上げたという。京都市紀念動物園では、この2頭を含めて14頭が処分対象となっている。

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