京都市動物園でのエピソード
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京都市動物園(開園当初から1962年4月までの名称は京都市紀念動物園)は日本国内では恩賜上野動物園についで歴史のある動物園で、1903年4月に開園した。開園当時は、ウマやシカ、タンチョウなどの61種238点と動物の種類も数も少なかった。その後は園内での繁殖や日本国外からの動物の購入や譲渡などによって、1940年にはその種類と数は209種965点まで増えていた。しかし、1945年後には72種274点と動物の種類と数が大幅に減少している。その理由には、第二次世界大戦の影響による飼料不足に起因する栄養失調に加えて、軍の命令による猛獣処分があった。 1941年12月に太平洋戦争が始まったが京都市紀念動物園は開園を続け、翌1942年までは春季の夜間開園も行われていた。しかし1943年4月、所轄である川端警察署から空襲警報発令時には臨時閉園するようにとの指示が出された。 その時期には、日本各地で閉園する動物園や猛獣を処分せざるを得なくなった動物園が出始めていた。東京では、1943年8月16日に東京都長官大達茂雄によって恩賜上野動物園の猛獣27頭の処分命令が下され、8月17日から9月23日にかけてライオン・トラ・ヒョウ・クマ・ゾウなどが処分された。京都に近い大阪市立動物園(現:天王寺動物園)では1943年9月4日から翌1944年3月15日の間にライオン・ヒグマ・ホッキョクグマなど10種26頭が処分されている。 京都市紀念動物園では、動物たちの飼料確保のために園内の空き地や近くの土地を開墾して畑にするなどの措置を講じるなどの努力が絶えず続けられていた。1944年1月には新聞記者からの問い合わせに対して「いまのところ、猛獣の処分は考えていない」と園側が回答している。 しかし、その問い合わせから2か月ほど経過した同年3月12日、突如軍から「本日午後三時、猛獣たちを処置せよ」との命令が下った。急な話のことで園側はせめて1日の猶予をと懇願し、翌日から処分の作業が開始されることになった。 最初に銃殺されたのは、2頭のアカグマ(ヒグマ)であった。1頭は1931年1月25日生まれのオス(無名)、もう1頭は1921年7月30日生まれのメス(ニコー)だった。2頭は檻の外から銃弾を撃ち込まれ、血まみれになって横たわった。翌朝、2頭を運び出すために檻に行った職員たちは、死んだはずのクマがまばたきをしたのに気づいて驚愕した。職員たちは、やむなく2頭の首にロープ(針金とも)を巻き付けて締め上げたという。京都市紀念動物園では、この2頭を含めて14頭が処分の対象となっている。
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