久邇宮家と杉浦重剛らの抵抗
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「宮中某重大事件」の記事における「久邇宮家と杉浦重剛らの抵抗」の解説
杉浦重剛は10月13日に山縣に会った際に「久邇宮にも困ったものだ」と言われ、何事かと思い情報収集にあたった。そして11月18日、良子女王への進講のため久邇宮邸を訪れた際に後閑菊野と久邇宮家に仕える分部資吉から色覚異常問題を聞き、保利の意見書も見て事態を把握する。杉浦は「かかる意見書、何かあるべき、取るに足らぬ事なり」として色覚異常は些末な欠点であると言い、「綸言汗の如し」、つまり、一旦内定した婚約を取り消すのは天皇の徳を傷つけると主張した。 一方、久邇宮家に近い賀来佐賀太郎専売局長が、知り合いの藤田秀太郎に理由を述べずに色覚異常の遺伝に関する意見書の作成を依頼し、11月25日に藤田の意見書が出来上がる。報告書には、色覚異常は半数の男子にしか遺伝せず、色覚異常の遺伝子を持たない者と結婚し三代経てば色覚異常の遺伝は無くなると記されており、島津忠義の側室・寿満子の父が色覚異常であるとして、その三代目にあたる良子女王は色覚異常の遺伝子を持たないとするもので、通常の学説に則っていない「いい加減」なものであった。 徹底抗戦の意思を固めた邦彦王は11月28日、貞明皇后に拝謁し、「凡そ帝室の御事は、衆庶臣民、常に敬虔の念をもって耳目を傾けざるはなく、苟も事一旦御治定あらせられたると伝わりたる候、軽々に之が更改を試みんが、民間の物議を醸すこと容易ならずと拝信す。若し其御治定にして、後来更生を要すべき遺漏があらんか、当局の責免るべからざるは勿論なるのみならず、実に不忠不臣の罪も免るべからざるし(以下略)」から始まり、天皇・皇后が取り消しを望む、または皇室の血統に必ず弱点が生ずるとなった場合には速やかに辞退する、という書面を提出し直訴した。しかし皇后は邦彦王の態度を不遜であるとして怒り、皇后宮大夫を通じて書面を返却した。 12月1日、杉浦は明治神宮を参拝した後、自らが創設した日本中学校で友人や門下生である、一瀬勇三郎、平石氏人、畑勇吉、島弘尾、川地三郎らと話し合い、本格的に行動を開始した。そして12月3日、杉浦は恩師でもある浜尾新東宮太夫と面談。このとき杉浦は、婚約破棄という人倫にもとることが行なわれれば今まで皇太子に倫理を教えてきたのが無駄になり、また良子女王は自殺するか出家するしかなくなるとし、婚約続行を訴えるが聞き入れられず、翌日、病気を理由として東宮御学問所幹事の小笠原長生に東郷平八郎総裁宛の辞表を出した。そして杉浦は12月6日以降、病気を理由に東宮御学問所の講義を欠勤し、以後学問所の終了まで杉浦の講義は行われなかった。 それまで原敬総理大臣は蚊帳の外であったが、12月7日に西園寺と田中義一陸軍大臣から話を聞き、婚約解消問題を初めて知る。山縣も原に状況を説明し、味方に取り込もうとした。そして原は12月15日に松方を訪ね、婚約解消を確認しあった。 12月6日、山縣は上京し久邇宮邸を訪れ、皇后に提出した親書に対する疑義を質し、婚約辞退を勧めようとした。久邇宮側は動揺し、宮務監督の栗田直八郎が辞退の文章起草に取り掛かる状況となった。邦彦王は12月9日頃、山縣と松方正義に、皇后に提出した親書の写しと医師の診断書を含む手紙を送った。これに対し山縣は、久邇宮家から婚約を辞退すれば、その皇室への忠誠心を皆が称えるであろう、という内容の返答をした。 12月16日、山縣は邦彦王に、改めて専門家に調査を依頼し、その結果が宮内省の報告書と同じであったなら婚約を辞退すべきである、との手紙を出した。そして12月20日、中村宮内大臣は文部省を通じて、佐藤三吉東大医学部長、河本重次郎東大医学部教授、三浦謹之助東大医学部教授、永井潜東大医学部教授、藤井健次郎東大理学部教授の5人に色覚異常遺伝に関する調査を依頼。翌日、良子女王が色覚異常遺伝を持っている場合、皇太子との間に生まれる男子の半分は色覚異常になるという報告書が出された。この報告書は宮内大臣から山縣・松方・西園寺に示された後、邦彦王に送られ、これで一件落着すると元老や原首相は考えていた。報告書を読んだ久邇宮側が自発的辞退を検討しているとの話を受けて、山縣は、12月30日に久邇宮家が辞退した場合、この婚約を事前に調査していなかった自分にも責任があり、処分に相当するという内容の「待罪書」を宮内次官に提出し、小田原の別邸古希庵に引っ込んだ。 しかし杉浦は12月23日に小笠原長生を訪ねて、婚約解消には絶対反対であり、どんなことがあっても東宮御学問所御用掛を辞任すると宣言。12月27日には東郷平八郎に招かれ慰留されるが、これも断った。
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