さんごくつうらんずせつ〔サンゴクツウランヅセツ〕【三国通覧図説】
三国通覧図説
三国通覧図説
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『三国通覧図説』(さんごくつうらんずせつ)は、天明5年(1785年)[1]、林子平により書かれた江戸時代の地理書・経世書。日本に隣接する三国、朝鮮・琉球・蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚からなる。
- ^ 三国通覧図説 Archived 2012年7月13日, at Archive.is 九州大学デジタルアーカイブ
- ^ a b c d 井上清『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)
- ^ 大熊良一『竹島史稿』p22.
- ^ 八重山日報、平成26年1月12日第4面、石井望「尖閣諸島歴史問答~開拓の日に寄せて①尖閣を臺灣と別色に塗る地圖なのに臺灣に屬すると主張」[1] [2] 八重山日報 2014年1月12日
- ^ 塚本 孝. “島嶼研究ジャーナル 第 9 巻 1 号(2019 年 11 月)”. 海洋政策研究所島嶼資料センター. 2020年1月29日閲覧。
- ^ 保坂祐二、『<独島・竹島>の日韓史』、pp. 271-273
- ^ a b Web竹島問題研究所 島根県ホームページ
- ^ Web竹島問題研究所 島根県ホームページ
- 1 三国通覧図説とは
- 2 三国通覧図説の概要
- 3 参考文献
三国通覧図説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 02:03 UTC 版)
詳細は「三国通覧図説」を参照 『三国通覧図説』は、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパの各言語に翻訳された。地図は正確ではなく、本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれているものであった。韓国および中国において、一部の研究者はこのドイツ語版もしくはフランス語版が、ペリー提督との小笠原諸島領有に関する日米交渉の際に、日本の領有権を示す証拠として使用されたと主張している。 韓国ではこれを、同国の竹島・対馬領有権の証拠と主張し、中国ではこれを、同国の尖閣諸島領有権の証拠と主張している。しかし、19世紀に日米間で小笠原諸島の領有権を争った事実はなく、日米両国にそういった記録は存在していない。『三国通覧図説』が小笠原諸島領有における日米交渉に使われたという話は『河北新報』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタであるとされている(若松正志「小笠原諸島の領有と林子平恩人説の展開」『日本史研究』536,2007.4,p.103)。 林子平が『三国通覧図説』の中に描いた「三国接壤之図」には、主にロシア、朝鮮、日本が描かれていて、朝鮮のすぐ東に島が一つ、そして日本海の中央に竹嶋と記された島とその横に小さな島が描かれていて、この3島はすべて朝鮮と同じ黄色で塗られ、日本領ではないと区別されている。中央の2島の横には「朝鮮之持也」と記されていて、竹嶋(鬱陵島)とそのすぐ東にある小島が朝鮮領であると表示している。この小島を日本側は鬱陵島から約2kmの距離にある竹嶼だというが、保坂祐二はこの小島が松島(独島)であり、朝鮮領となっているとする。その理由として、『三国通覧図説』の日本図の部分は長久保赤水の地図に拠ったとした点を挙げている。 これに対して日本側からは、この「竹島」は、鬱陵島から約2kmの距離にある竹嶼だと反論されている。なぜならこの記述は、1711年に朴錫昌が提出した「欝陵島図形」の系統を引くもので、「その竹嶋には、「此嶋ヨリ隠州ヲ望/朝鮮ヲモ見ル」と記されたもう一つの付記がある。これは林子平が「三国接壌図」を作図する際、その中心に置いた長久保の『日本輿地路程全図』に由来する文言で、齋藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用文である。そこに林子平が改めて「朝鮮ノ持也」と注記したのは、『日本輿地路程全図』では欝陵島を日本領として認識していたからで、注記の対象は欝陵島だけになるから」である。
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