一茶記念館、一茶忌の行事とは? わかりやすく解説

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一茶記念館、一茶忌の行事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)

小林一茶」の記事における「一茶記念館、一茶忌の行事」の解説

終戦後まもなく、地元柏原では一茶顕彰機運盛り上がり始めた昭和21年1946年)は一茶二十回忌に当たり、時の柏原村長を中心として「俳諧一茶保存会」が新たに設立された。この昭和21年一茶二十回忌以降毎年一茶命日である11月19日一茶忌行事を行うようになった。 そして昭和26年1951年)、一茶の百二十回忌記念して大法要、句碑建立一茶俤堂(俳諧寺)の修理記念出版、そして全国俳句大会催された。この全国俳句大会は「俳諧一茶保存会」が主催となり、「科野主催俳人栗生純夫らの協力得て毎年一茶忌行われる行事として定着する。この一茶の百二十回忌記念して出版されたのが、一茶研究書として重要視されている「一茶まつり」である。そして一茶の百二十回忌記念事業として「俳諧一茶保存会」の財団法人化目指され、昭和28年(1953年)、正式に財団法人として認可された。 一茶命日である11月19日一茶忌は、柏原信濃町)では前述全国俳句大会の他に、一茶菩提寺明専寺での法要記念講演会の他に、地元の新そばがふるまわれる催しとなって地元恒例行事として定着する。また昭和30年代頃から一茶俤堂(俳諧寺)の天井に、訪れた俳人俳句揮毫をしてもらう習慣となった初期の頃揮毫者には高浜虚子中村草田男山口誓子飯田龍太秋元不死男らの名前がある。なお、一茶俤堂(俳諧寺)には日光入りどうしても退色してしまうため、平成15年2003年)頃には古い揮毫については外して別の場所で保存し一茶俤堂(俳諧寺)内には新し揮毫掲示することにした。 昭和32年1957年5月8日一茶終焉土蔵が「小林一茶旧宅」として国の史跡指定された。史跡指定されたことを記念して信濃町一茶旧宅の隣にあった弟、仙六が住んでいた家屋敷購入した。そして同じく史跡指定記念事業として記念館の建設計画され昭和35年1960年9月19日小丸山公園内の一茶俤堂(俳諧寺)の隣地一茶記念館がオープンする史跡指定され一茶終焉土蔵であるが、正確な建築年代不明ながら史跡指定時には既に約築250年推定されており、土台腐り倒壊可能性指摘されていた。そこで昭和38年度(1963年度)、昭和39年度(1964年度)と解体修理工事が行われた。土蔵解体修理平成13年2001年)から14年2002年)にかけても行われ一茶死去直前発生した柏原大火後仮住まいとして囲炉裏を切り、土蔵壁面小さな明り取りの窓を一つ設けた一茶生前時の姿に復元されている。一方一茶記念館の運営主体であった財団法人俳諧一茶保存会平成13年2001年3月解散となり、事業信濃町引き継がれた。そして一茶記念館についても新館の建設工事が行われ、平成15年2003年4月5日一茶記念新館小林一茶旧宅解体修理工事竣工式が行われた。一茶記念館では書や遺品書籍など多く一茶関連資料保存展示しており、また一茶研究事業行っている。

※この「一茶記念館、一茶忌の行事」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「一茶記念館、一茶忌の行事」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。

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