一茶記念館、一茶忌の行事
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「小林一茶」の記事における「一茶記念館、一茶忌の行事」の解説
終戦後まもなく、地元柏原では一茶顕彰の機運が盛り上がり始めた。昭和21年(1946年)は一茶百二十回忌に当たり、時の柏原村長を中心として「俳諧寺一茶保存会」が新たに設立された。この昭和21年の一茶百二十回忌以降、毎年一茶の命日である11月19日に一茶忌の行事を行うようになった。 そして昭和26年(1951年)、一茶の百二十五回忌を記念して大法要、句碑建立、一茶俤堂(俳諧寺)の修理、記念出版、そして全国俳句大会が催された。この全国俳句大会は「俳諧寺一茶保存会」が主催となり、「科野」主催の俳人、栗生純夫らの協力を得て、毎年、一茶忌に行われる行事として定着する。この一茶の百二十五回忌を記念して出版されたのが、一茶の研究書として重要視されている「一茶まつり」である。そして一茶の百二十五回忌の記念事業として「俳諧寺一茶保存会」の財団法人化が目指され、昭和28年(1953年)、正式に財団法人として認可された。 一茶の命日である11月19日の一茶忌は、柏原(信濃町)では前述の全国俳句大会の他に、一茶の菩提寺、明専寺での法要、記念講演会の他に、地元の新そばがふるまわれる催しとなって、地元恒例の行事として定着する。また昭和30年代頃から一茶俤堂(俳諧寺)の天井に、訪れた俳人に俳句の揮毫をしてもらう習慣となった。初期の頃の揮毫者には高浜虚子、中村草田男、山口誓子、飯田龍太、秋元不死男らの名前がある。なお、一茶俤堂(俳諧寺)には日光が入りどうしても退色してしまうため、平成15年(2003年)頃には古い揮毫については外して別の場所で保存し、一茶俤堂(俳諧寺)内には新しい揮毫を掲示することにした。 昭和32年(1957年)5月8日、一茶終焉の土蔵が「小林一茶旧宅」として国の史跡に指定された。史跡に指定されたことを記念して、信濃町は一茶旧宅の隣にあった弟、仙六が住んでいた家屋敷を購入した。そして同じく史跡指定記念事業として記念館の建設が計画され、昭和35年(1960年)9月19日、小丸山公園内の一茶俤堂(俳諧寺)の隣地に一茶記念館がオープンする。 史跡に指定された一茶終焉の土蔵であるが、正確な建築年代は不明ながら史跡指定時には既に約築250年と推定されており、柱や土台が腐り倒壊の可能性が指摘されていた。そこで昭和38年度(1963年度)、昭和39年度(1964年度)と解体修理工事が行われた。土蔵の解体修理は平成13年(2001年)から14年(2002年)にかけても行われ、一茶の死去直前に発生した柏原の大火後の仮住まいとして囲炉裏を切り、土蔵の壁面に小さな明り取りの窓を一つ設けた、一茶生前時の姿に復元されている。一方、一茶記念館の運営主体であった財団法人俳諧寺一茶保存会は平成13年(2001年)3月に解散となり、事業は信濃町に引き継がれた。そして一茶記念館についても新館の建設工事が行われ、平成15年(2003年)4月5日、一茶記念館新館と小林一茶旧宅の解体修理工事の竣工式が行われた。一茶記念館では書や遺品、書籍など多くの一茶関連の資料を保存、展示しており、また一茶研究事業を行っている。
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