ヴェネツィアとオーストリア支配時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:04 UTC 版)
「スプリト」の記事における「ヴェネツィアとオーストリア支配時代」の解説
神聖ローマ皇帝ジギスムントとナポリ王家であるアンジュー家との間のハンガリー内戦が20年続く間、勢いを失ったラディズラーオ1世はダルマチアにおける自身の権利を、ほんの100,000ダカットでヴェネツィア共和国へ売り渡した。1420年にさらに中央集権化した共和国がスプリトを掌握、ヴェネツィア支配はその後377年続いた。当時の人口はスラヴ語に属するクロアチア語話者が多かったが、公用語はイタリア語だった(トスカーナ方言とヴェネツィア方言の混合)。スプリトの自治権は減らされた。最高権力者は常にヴェネツィア生まれの人間が務めた。 このような自治を押さえつけられた状態にもかかわらず、スプリトはまもなく衆目をひく港湾都市に発展していった。スプリトが、近郊のクリス水道を通ってオスマン帝国が押さえる内地へと向かう重要な通商路上にあったからである。同様に文化も華開き、クロアチア人古典作家マルコ・マルリッチ(en:Marko Marulić)を生んだ。マルリッチの代表作『ユディタ』(en:Judita、1501年)は、スプリトで書かれ、1521年に出版された。スプリトは最初のクロアチア文学の近代作品が生み出されたのである。なお、文化活動の進化と達成とを成し遂げた作品は、主として貴族のために書かれたことが知られる。ヴェネツィア支配者が教育・医学施設に関心を見せたことから、スプリトの識字率はずば抜けて高かった。スプリトは、1797年のカンポ・フォルミオ条約でヴェネツィアが没落するまで支配を受けた。短期間のナポレオン支配の後(1806年-1813年)、ウィーン会議によってスプリトはオーストリア帝国に割り当てられた。この時代に市内への広範囲な投資が着手され、新しい通りがつくられて古代の要塞の一部が取り除かれた。 オーストリア帝国時代のスプリト地域とダルマチア王国は、分離された行政単位であった。ナショナル・ロマンティシズムの結果である1848年革命の後、2つの派閥が現れた。一つは人民党に率いられた親クロアチアの連合派(のちにプンタリと呼ばれる)、そして幾分か小さな権利党であった。どちらもハンガリーの行政監督下にあったクロアチア=スラヴォニアとダルマチアの連合を主張していた。この派閥はスプリトでより強く、本部を置いていた。もう一つの派閥は、親イタリアの自治主義派(未回収のイタリア派として知られる)で、彼らの政治的目標は、イタリア王国との政治的連合のもとオーストリア=ハンガリー帝国内での自治権を修正することであった。スプリトでの政治的同盟は時間がかかった。当初、連合派と自治主義派は互いに提携してウィーンの中央集権主義に対抗していた。しばらくして民族的な疑問が突出したことで2つの派閥は袂を分かった。しかしオーストリア支配下で、スプリトはだいたいに置いて沈滞した状態にあったと言われている。1848年のヨーロッパの大きな地殻変動はスプリトにおいて起きなかった。反乱も起きなかった。
※この「ヴェネツィアとオーストリア支配時代」の解説は、「スプリト」の解説の一部です。
「ヴェネツィアとオーストリア支配時代」を含む「スプリト」の記事については、「スプリト」の概要を参照ください。
- ヴェネツィアとオーストリア支配時代のページへのリンク