ヴェストファーレン条約の締結
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「三十年戦争」の記事における「ヴェストファーレン条約の締結」の解説
この一連の戦況によって和平会議は一気に進展した。国際会議にはイングランド、ポーランド、ロシア、オスマン帝国を除いた全てのヨーロッパ諸国が参加していた。しかし1646年に皇帝軍がバイエルンに合流することを恐れたスウェーデンが、バイエルンに再度侵攻する。フランスはこれを越権行為として、スウェーデン牽制のためにテュレンヌ将軍を派遣した。両者に挟まれたマクシミリアン1世は翌1647年に屈服・休戦したが、バイエルン軍の将軍ヨハン・フォン・ヴェルト(英語版)が反乱を起こして皇帝軍に合流し、ヤンカウの敗戦で打撃を受けた皇帝軍は驚異的な復活を成し遂げる。 1648年1月31日、ミュンスター講和でスペインとネーデルラントの個別講和が行われた。 劣勢を挽回した皇帝・バイエルン連合軍は、1648年にアウクスブルク近郊のツスマルシャウゼンでカール・グスタフ・ウランゲル(英語版)とテュレンヌの率いるスウェーデン・フランス連合軍との戦闘に臨んだが大敗する(ツスマルシャウゼンの戦い)。しかし、スウェーデンはなおボヘミアの征服とプロテスタント化を諦めず、1648年7月26日以降もプラハでは戦闘が続いた。今やカトリックの最後の砦となったプラハは激しく抵抗し、降伏には応じなかった。後にスウェーデン王となるカール10世(スウェーデン軍総司令官・クリスティーナの従弟)も援軍に駆けつけ、包囲戦は3ヶ月にも及んだ(プラハの戦い(1648年)(英語版))。更に皇帝側の頼みの綱だったスペインも、ランスでコンデ公率いるフランス軍に敗れ(ランスの戦い)、大勢は決した。ツスマルシャウゼンで勝利したスウェーデン軍はプラハを包囲、占領した後に帝都ウィーンを攻める態勢を固めた。 和平交渉においてスウェーデンは、過度な要求を皇帝に突き付けたが、クリスティーナ女王はキリスト教世界の平和と安寧のために皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせた。引き替えに女王は、スウェーデンの膨大な要求を引き下げ寛大な譲歩を行った。この譲歩によって和平交渉は進み、皇帝が和平条約への署名を決断した1648年10月24日にヴェストファーレン条約がミュンスターとオスナブリュックで締結され、三十年戦争は終結した。前者はフランスと、後者はスウェーデンに関わる内容だった。戦争終結を祝し、70門の大砲の一斉射撃が行われた。11月2日、プラハに条約締結の報が届いた。 条約ではメッツ、トゥール、ヴェルダンの司教領、エルザス(アルザス)のズントガウなどがフランスに割譲され、スウェーデンは西ポメルン(前ポンメルン)、リューゲン島、ヴィスマル市、ブレーメン大司教領を得て、さらに帝国議会の議席も得た。この意味でフランスとスウェーデンは三十年戦争の勝利者ともいわれる。さらにスイスとネーデルラント共和国の独立が正式に承認された。他方、スペインは和平対象から外された。このためスペインとフランスの対立は1659年のピレネー条約まで持ち越された。 帝国内ではアウクスブルクの宗教平和令の有効性が確認され、対立の原因でもあった「聖職者に対する留保」条項は破棄され、1624年における宗派分布が基準とされ、これにもとづき諸領域はどの宗派に属するかが決定された。さらにカルヴァン派も公認され、帝国議会では新旧両派の合意によって決定されることとなり、これによって宗教問題が帝国内の紛争の原因となることは基本的にはなくなった。ただし、信仰の自由は領邦君主に許されるままで、個人の自由は認められなかった。皇帝の権限は後退し、帝国等族の権利が強まり、外国との戦争、法の発布には帝国等族の同意が必要とされるようになった。こうして「ドイツの自由」は「帝国等族の自由」となった。
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