宗教改革
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宗教改革(しゅうきょうかいかく、英: Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期 - 近世)の西方キリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教の分離へと発展した。
注釈
出典
- ^ ピーター・バーク著 亀長洋子訳「ルネサンス」(ヨーロッパ史入門)p62 岩波書店 2005年11月25日第1刷
- ^ 森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p111 2000年7月25日発行
- ^ 森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p114 2000年7月25日発行
- ^ 森川甫『フランス・プロテスタント』日本キリスト改革派教会
- ^ 百瀬、熊野、村井、p130 - p132。
- ^ 百瀬、熊野、村井、p138。
- ^ 百瀬、熊野、村井、p146。ジグムント3世の廃位の理由は、ウプサラ宗教決議の違反であったが、両国のヴァーサ家はスウェーデン王位を巡り1660年まで争うこととなった。
- ^ 増田祐志編『カトリック神学への招き』上智大学出版、2009年4月10日。71-72頁。
- ^ a b c d e f g h Jeremias II (Ecumenical Patriarchate)
- ^ Revised Julian Calendar - OrthodoxWiki
- ^ 高橋保行『ギリシャ正教』 p116 講談社学術文庫 1980年 ISBN 4-06-158500-2 ISBN 978-4-06-158500-3
- ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" p267, Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5) ISBN 9780631232032
宗教改革期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:44 UTC 版)
ウルリヒの息子クリストフ(在位1550年 - 1568年)の治世に、ヴュルテンベルクのプロテスタント化は完了した。クリストフは教会統治組織を導入し、この組織は20世紀まで存続した。クリストフの時代には、常設の委員会が公国の財政を管理するようになった。この委員会に所属する者は全員が上流階級で、委員たちは主に都市の財源を自分たちの思い通りに振り分け、公国で大きな権力を得た。 クリストフの息子ルートヴィヒ(在位1568年 - 1593年)は1593年に子供の無いまま死去し、傍系のフリードリヒ1世(在位1593年 - 1608年)が後を継いだ。フリードリヒ1世は精力的な統治者で、権力に制限のある君主としての立場や、古くから続く国法を軽んじた。1599年、フリードリヒは神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に多額の金を払い、ヴュルテンベルクをオーストリアの属領の地位から解放した。こうして、ヴュルテンベルクは再び帝国直属身分に復帰した。 ウルリヒの息子で後継者のヨハン・フリードリヒ(在位1608年 - 1628年)は、絶対君主になろうとして失敗し、君主権に制限があることを認めてしまった。ヨハン・フリードリヒの治世に、公国は三十年戦争に巻き込まれて激しく荒廃したが、ヨハン・フリードリヒ自身はこの戦争で誰の味方をしたわけでもなかった。その息子のエーバーハルト3世(在位1628年 - 1674年)は、1633年に親政を開始してすぐにフランスおよびスウェーデンの同盟国として三十年戦争に参加したが、1634年のネルトリンゲンの戦いで皇帝軍が大勝すると、皇帝軍に公国を占領させ、しばらく亡命生活を送ることになった。ヴェストファーレン条約の締結とともにエーバーハルト3世は公国に戻ったが、ヴュルテンベルクは人口が減って国土も激しく疲弊していた。エーバーハルト3世は後半の治世を、長い戦争によって衰えたヴュルテンベルクの国力回復のために費やした。
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宗教改革期
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イングランド王ヘンリー8世の時代、国王の離婚問題やローマ教皇庁に対する献金などの問題からイングランドと教皇庁との対立が生じ、1534年、ヘンリー8世はイングランド王をイングランド全教会の首長とする「国王至上法」(首長令)を公布し、ローマ・カトリック教会からの独立を宣言した。しかし、この時点ではあくまでローマ・カトリックの教義・典礼を残したまま、国家単位での組織的な独立のみを図った。これがヨーロッパ大陸におけるルターやカルヴァンらの宗教改革との決定的な相違点である。のちの時代にフランスで興ったガリカニスムに近い。 1547年、ヘンリー8世が崩御してエドワード6世の治世に入ると、カンタベリー大主教トマス・クランマーらの主導により、内容的にも独自の宗教改革が進められた。1553年、クランマーは、ルター派との話し合いから生まれた『42箇条』を作成した。しかし、同年にメアリー1世が即位すると、ローマ・カトリックへの復帰を進め、『42箇条』は廃棄され、1556年にはクランマーも処刑された。1558年にエリザベス1世が即位すると、カンタベリー大主教マシュー・パーカーらの主導で再びプロテスタント的な改革が進められ、エリザベス1世は1559年に改めて国王至上法を採択し、1563年には『イングランド国教会の39箇条』を発布して、ローマ・カトリックと完全に決別した。しかしエリザベス1世のもとでの改革は、ローマ・カトリックへの復帰も急進的なプロテスタント化(ピューリタン)も退ける穏健・中立的な方針であり、「Via Media」というスローガンもこの頃に定まった。 その後も、チャールズ1世(在位1625年~1649年)の代には、ローマ・カトリックに親和的な反動政策と、ピューリタン弾圧や、1567年以来カルヴァン主義の長老派教会が国教(スコットランド国教会)となっていたスコットランドに対してもイングランド国教会の支配を強要しようとしたなどの問題が契機となって清教徒革命が勃発するなど、英国の宗教事情はカトリック的な伝統維持とプロテスタント的な改革を行き来したが、大局的には「Via Media」の精神が貫かれた。
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