ヴィッテルスバッハ朝時代とは? わかりやすく解説

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ヴィッテルスバッハ朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 07:49 UTC 版)

バイエルン公国」の記事における「ヴィッテルスバッハ朝時代」の解説

その出自に関してルイトポルト家末裔ではないかとの説があるバイエルン公オットー1世は、フリードリヒ1世仕え最良騎士であった。そのオットー1世獲得したバイエルン領域はシュタインマルク辺境伯領ドイツ語版)が公爵地位授けられたことで最終的に分離したことで未だ縮小されたままであった。しかし、息子ルートヴィヒ1世1231年没)の代には領域著しく拡大することになる。1214年婚姻に伴い新鋭ローマ皇帝フリードリヒ2世よりライン宮中伯領拝領したのであるルートヴィヒ1世息子フリードリヒ2世のかつての忠実な味方であったオットー2世1253年没)は国内の完全独立目指す司教権力不和となり、衝突したフリードリヒ2世に対して完全に忠誠尽くしたことから、オットー2世ローマ教皇によってカトリック教会から破門されている。 オットー2世没後バイエルンは、ヴィッテルスバッハ家系統間で細分化の道を辿ることとなる。既にオットー2世息子であるルートヴィヒ2世1294年没)とハインリヒ13世1290年没)は2年間は共同統治をしていたもの1255年領地分割している。前者ミュンヘン首都とする上バイエルンドイツ語版)とライン宮中伯領を、後者ランツフート中心とする下バイエルンドイツ語版)をそれぞれ統治することとなったのである加えて2人の兄弟は共にシチリア国王シャルル・ダンジューによって処刑されホーエンシュタウフェン家最後統治者コッラディーノ遺産をも手に入れたルートヴィヒ2世が死ぬと、ライン宮中伯次男ルドルフ1世が、上バイエルン三男ルートヴィヒ4世1282年-1347年1314年ローマ王選出され1328年ローマ皇帝戴冠する)が相続することで両者分離したルートヴィヒ4世ヴィッテルスバッハ家領地著しく増大させた。1329年パヴィーアにて兄ルートヴィヒ2世遺児たちに最終的にライン宮中伯領オーバープファルツ支配権委ねる取り決め結んだ。この取り決めにより、両家とも女子には領地及び相続権を譲る権利剥奪されて(サリカ法採用)、ライン宮中伯地位はこれ以降双方家系交互に所有することとなった。しかし、1356年制定され金印勅書により、プファルツ系のヴィッテルスバッハ家選帝侯位を獲得することが最終的に決議された。1340年に下バイエルン系ヴィッテルスバッハ家断絶したことにより、バイエルンルートヴィヒ4世のもとで再び一つとなった。しかもルートヴィヒ4世マルガレーテ・フォン・ホラント結婚したことで、ホラント伯領(オランダ語版)、ゼーラント伯領(オランダ語版)、エノー伯領といったネーデルラント一帯獲得したのであるさらにはブランデンブルク辺境伯をも手に入れ、これまた婚姻関係通じて長男ルートヴィヒ5世チロル伯領(英語版)を授けたバイエルン秩序著しく向上したのはルートヴィヒ4世統治に負うところが多い。ルートヴィヒ4世ミュンヘン権利与え上バイエルンのためには民法を下バイエルンのためには新たな訴訟手続きそれぞれ発したルートヴィヒ4世は6人の息子豊かな遺産残した当初バイエルン兄弟間の共同統治下におかれていたが、1349年分割開始され最初は再び上下分裂した1353年に下バイエルンバイエルン=ランツフートバイエルン=シュラウビング(ドイツ語版)に分裂した1363年ルートヴィヒ5世息子マインハルトが死ぬと、上バイエルンバイエルン=ランツフートバイエルンシュトラウビング間で分割された。1392年バイエルン=ランツフートからバイエルン=インゴルシュタットバイエルン=ミュンヘン分離した。しかもチロルブランデンブルクネーデルラント一帯徐々に失われていったバイエルン系ヴィッテルスバッハ家の諸系統断絶するたびに領地分割争い開始され、それはしばし武力衝突発展することになった1432年バイエルンシュトラウビング領地バイエルン=インゴルシュタットバイエルン=ランツフートバイエルン=ミュンヘン間で分割された。1447年バイエルン=インゴルシュタットバイエルン=ランツフート併合された。1467年ジギスムントのためにバイエルン=ミュンヘンからバイエルンダッハウ分離したもの、1501年ジギスムントが死ぬと、その遺領は再びバイエルン=ミュンヘン回収され1503年にはバイエルン=ランツフートバイエルン=ミュンヘン合併された。 1505年バイエルン=ミュンヘン家のアルブレヒト4世狡猾公のもとで、バイエルン統一されたことが明白となったアルブレヒト4世それまでに至る領地分割で蒙った被害合計への意識から、最初に生まれた男子による単独かつ領地分割禁止公位継承法の承認を得ることに努めた。この継承に従ってヴィルヘルム4世ルートヴィヒ10世エルンストドイツ語版)の3人の息子のうち、ヴィルヘルム4世唯一の後継者となった。 しかし1508年アルブレヒト4世が死ぬと、ヴィルヘルム4世1550年没)とルートヴィヒ10世1545年没)の共同統治という新たな分割が行われた。両者多数支持者取り付けるなどして互い改革協力し合ったが、その際遭った最も決定的な抵抗は、1541年バイエルン国内イエズス会召集である。ルートヴィヒ10世没したことで、バイエルンは再びヴィルヘルム4世のもとで一つになったことは明白となり、その息子であるアルブレヒト5世もまた別のイエズス会であった同時に芸術科学保護している。その後1579年継いだヴィルヘルム5世1597年議会で、長子マクシミリアン1世譲位して自らは引退することを余儀なくされた。 多彩な才能持ち主であったマクシミリアン1世は、反プロテスタント同盟指導者であった三十年戦争の際にはローマ皇帝フェルディナント2世から1623年プファルツ選帝侯領授けられているが、その内実はフェルディナンド2世戦費担保としてオーバープファルツ与えたというものであったヴェストファーレン条約で、マクシミリアン1世選帝侯としての地位オーバープファルツ領有権確たるものとなると同時にプファルツ=ジンメルン家には8つ領地からなるプファルツ選帝侯領創立されマクシミリアン1世の子孫が絶えた時にはバイエルン継承する権利があることも確認された。かくしてバイエルン公国再編されバイエルン選帝侯領称されるうになる

※この「ヴィッテルスバッハ朝時代」の解説は、「バイエルン公国」の解説の一部です。
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