ヴィッテンベルク時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:01 UTC 版)
「パウル・ゲルハルト」の記事における「ヴィッテンベルク時代」の解説
1628年1月2日、ゲルハルトはヴィッテンベルク大学神学部と哲学部に入学を許可された。すでに彼は実家とギムナジウム等でマルチィン・ルターの教えに取り組んでいた。ヴィッテンベルク大学で彼はルター派正統主義の著名な神学者たち、さらにアウグスト・ブフナーのような詩作家から教えを受けた。そこで学と知己を得たことで、ゲルハルトは敬虔さと詩作を重ね合わせることになり、後に彼の作った賛美歌に影響をもたらすことになった。修学時の金銭的援助としてヴィッテンベルク市区教会牧師で地区長補佐であったアウグスト・フライシュハウアーから家庭教師の職を提供され、ゲルハルトはその牧師館に住み込んだ。当時のヴィッテンベルクには30年戦争のため多くの避難民が押し寄せていた。さらに1636/37年においてペストが大流行した。当地の教会はペストによる犠牲者名簿を作成している。1637年4月7日、パウル・ゲルハルトの出生地周辺がスウェーデン軍によって完全に破壊された。1637年11月7日、ゲルハルトの兄クリスチャンが亡くなっている。ヴィッテンベルクでの様々な経験はパウル・ゲルハルトに大きな影響を与えた。1642年4月26日、そこでハンブルクの教授の息子の文学修士合格を祝うために、最初の機会詩をゲルハルトは書いた。
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