ヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯
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「バイエルン大公」の記事における「ヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯」の解説
選帝侯となって以降は、バイエルンは南ドイツの有力諸侯として活躍し、スペイン継承戦争でマクシミリアン2世エマヌエルはフランスの後ろ盾で勢力を伸ばし、息子のカール・アルブレヒトは1740年にハプスブルク家の断絶もあってフランス軍の加勢で皇帝にもなった(カール7世)。しかしいずれもハプスブルク家の反撃で没落、1代限りの栄光に終わった。 1777年、カール7世の息子マクシミリアン3世ヨーゼフの死によりバイエルンのヴィッテルスバッハ家は断絶し、バイエルン選帝侯位はプファルツのヴィッテルスバッハ家出身のカール4世フィリップ・テオドールに受け継がれた。ヴェストファーレン条約でバイエルンとプファルツのヴィッテルスバッハ家が統合した場合、プファルツはバイエルンに合併されその選帝権も失われることになっていたため、この時点を持ってプファルツ選帝侯は消滅した。 1806年、バイエルン選帝侯マクシミリアン4世はナポレオンによりバイエルン王とされた。以降のバイエルンについてはバイエルン王国を参照。
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