フラッド対キューン裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 01:10 UTC 版)
「カート・フラッド事件」の記事における「フラッド対キューン裁判」の解説
1969年10月、フラッドは新聞記者からの電話でおこされた。ティム・マッカーバープラス他2名と共にディック・アレン、クッキー・ロハス、ジェリー・ジョンソンとの交換でフィラデルフィア・フィリーズにトレードされるとの内容だった。しかし当時のフィリーズは弱小球団であり、フィラデルフィアには人種差別が根強く残っていたため、彼は難色を示した。保留条項があることにいら立ちをつのらせていた彼は、セントルイスの弁護士に相談し、トレード自体が反トラスト法違反であると問題にすることにした。 11月にメジャーリーグ選手会のマービン・ミラーらと会談した際に、この裁判はトゥールソン事件・ラドビッチ事件で光は見えてきてはいるが、とても困難であり、野球界を敵に回すからには今後の野球人生は無いかもしれないと告げられるが、フラッドはあくまで保留条項の撤廃のために戦う決心で、ガーデラ事件の様に和解を申し出てきても拒絶すると答えた。12月の選手委員会では満場一致でフラッドの支持を決定し、法廷費用は選手会から出されることとなった。弁護人にはミラーの鉄鋼労連時代からの知り合いで、労働長官、最高裁判事、国連大使を歴任したアーサー・ゴールドバーグ(en:Arthur Goldberg)が就任した。結成間もない選手会には高名な弁護士であったゴールドバーグに支払える弁護料は無かったが、ゴールドバーグが根っからの野球ファンであり、この件には以前から興味を持っていたため、アシスタントの人件費と必要経費のみでこの案件を請けてもらう事ができた。 先のトレードはフラッドの移籍拒否に伴い、カージナルスが別の2選手をフィリーズに送り、形式上はこのトレードは完結していたが、契約上では彼はフィリーズの選手となっていた。 入念な打ち合わせの末、12月24日に当時のMLBコミッショナーであったボウイ・キューンに、「私は自分の意思とは関係なく売買されてしまう商品ではなく、決断が下される前に他の球団からの提案も考慮出来る権利があるはずだ。あなたはこの私の考えを各球団に伝え、全球団が獲得可能であると伝えて欲しい。」との趣旨の手紙を送ったが、彼の主張は却下された。1970年1月16日、保留条項は奴隷制度のようなものであるとし、彼はニューヨーク地裁に100万ドルの損害賠償と保留条項の差し止めと救済を求める裁判を起こした。現役選手はオーナーからの報復を恐れて証言台には立たなかったが、引退選手のジャッキー・ロビンソンやハンク・グリーンバーグ、元シカゴ・ホワイトソックスオーナーのビル・ベックらが証人として出廷した。キューン側は保留条項が無かった移籍自由の時代の混乱を述べ、この条項が無ければ球界は成り立たないと主張した。 弁護士のゴールドバーグは裁判の最中、ニューヨーク州知事選に出馬したが、当時の現職ネルソン・ロックフェラーに敗れている。ミラーは知事選に出馬し裁判が疎かになったゴールドバーグを解任しなかったことを後に悔やんでいる。判事をたびたび待たせるなどもあったため、キューンもゴールドバーグのこの行動は、明らかにマイナスであったと語っている。1970年8月に地裁のクーパー判事は1922年の判例に従い訴えを却下した。 11月にフラッドはフィリーズからワシントン・セネターズに移籍し、1971年の開幕をむかえたが、約1年半のブランクの影響は大きく、13試合に出場したのみで引退した。1971年4月7日に控訴審は地裁の採決を支持としたため、10月に最高裁へ持ち込まれ審理されることとなった。選挙戦が終わったゴールドバーグは再び陣頭指揮を取った。9人の最高裁判事のうち、カージナルスの親会社、アンハイザー・ブッシュ社の株式を大量保有していたパウエル判事は審理に参加しなかった。 1972年6月、過去の判例に従い5対3の評決でフラッド敗訴が確定した。主文を書いたブラックマン判事によれば、1922年のフェデラル・リーグ裁判や1953年のトゥールソン裁判の判例を覆すことには抵抗があり、トゥールソン裁判で触れられた法修正に関しても、なされなかったのは意図があるからだと述べた。また、判事の6人が1922年の頃とは違い、放映権収入が入るようになった等形態が変わってきており、野球は明らかに利潤行為になっていることを認めつつも、そのうちの3名は1922年の判例に従うという矛盾した解釈をしていた。フラッド側に票を投じたダグラス、ブレナン判事は、1922年の判例が無かったとして、保留条項の反トラスト法違反を議論するならば、違反しているのは明らかであるとの解釈を示した。 結果的に選手側の敗訴で裁判は終わったが、選手会の結束も徐々に強まり、この後選手の権利のための交渉を重ねていく事となった。
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