ノース・ストランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 17:09 UTC 版)
「第二次世界大戦中のダブリン空襲」の記事における「ノース・ストランド」の解説
1941年5月31日、ダブリン北部にドイツ軍の爆弾が4発落ちた 。 夜、アイルランド軍の監視員がドイツ軍機の大群を発見し、サーチライトを点灯して追跡した。ドイツ軍機は編隊を組んでおらず、蛇行しながら単独飛行しており、中には旋回している物もあったという。ドイツ軍機がダブリン上空を立ち去らず、不規則飛行を続けていたため、アイルランド軍は警告用の照明弾を発射した。最初はパイロットにアイルランド国旗の色を示す3発の照明弾で中立国の上空にいる事を知らせ、続けて数発の赤い照明弾でアイルランドの空域を立ち去らなければ砲撃を行う事を警告した。15分が経過した所で発砲の指示が出され、アイルランド軍の高射砲が爆撃機に向けて発射されたが、 アイルランドの防空力は弱く、砲手の練度も不十分であった。高射砲の砲弾は爆撃機を破壊する事が可能であったが、目標に命中させられず、爆撃機は午前1時28分に爆弾を投下するまで、ほぼ1時間の間、砲撃を受けながら飛行を続けた。1分後には2発目が投下され、さらにその2分後には3発目が投下された。その後、ダブリンの空域を離れたドイツ機と残り続けたドイツ機に分かれ、高射砲も沈黙した。北に向かったドイツ機1機がコリンズタウン(英語版)上空で対空砲によって砲撃された後向きを変え、再びダブリン上空に現れ、時折低空で急降下しながら街を一周しはじめた。再びはじまった高射砲の砲撃やサーチライトの光をかわしながら30分近く飛行を続け、低空飛行で機銃掃射を行い、午前2時5分に爆弾を投下・着弾した。 数分以内に投下された最初の爆弾3発の内、1発はバリーボー(英語版)地域に落ち、サマーヒルパーク43番地と44番地にある2軒の家を破壊し、大勢の人を負傷させたが、死者はなく、もう1発はフェニックス・パークの動物園近くのドッグポンドのポンプ場に落下した。 犠牲者はなかったが、アイルランド大統領の公邸であるアーレス・アン・ウフタランが被害を受けた。3発目はサマーヒル(英語版)近くのノース・サーキュラー・ロード(英語版)に大きなクレーターを作ったが、やはり負傷者は出なかった。その約30分後に投下された最後の4発目の爆弾は、ノース・ストランド(英語版)に落ちて、28人が死亡、17軒の家屋が破壊され、約50軒の家屋が大破したが、最も被害が大きかったのはセビリア・プレイスとニューコメン・ブリッジの間の地域だった。28人の死者に加え、90人が負傷し、約300棟の家屋が倒壊・損壊し、約400人が住む家を失った。 6月5日、エイモン・デ・ヴァレラ首相やその他の政府関係者が出席して、犠牲者12人の葬儀が盛大に行われ、その同じ日、デ・ヴァレラはドイル・エアランで演説を行った。 この度の空襲により無残な死を遂げた多くの国民に対する、国民を代表する政府によるお見舞いの言葉に、ドイルの議員も加わる事を望んでおります。まだ、完全な調査は終わっていませんが、私が受けた最新報告によれば、27人が即死もしくは負傷後に死亡、45人の重傷者、負傷者がまだ入院中です。25軒の家屋が全壊し、300軒が居住できないほどの損傷を受け、何百人もの人々が住む家を失いました。 この出来事は、すべての国民にとって深い悲しみの機会であり、この議会のメンバーも十分にその悲しみを共有しており、それぞれの場所で立ち上がりました。また、いくつかの自発的組織のメンバーの献身的な貢献により災厄の範囲や影響を受けた人々の苦しみを軽減した事に対し、政府や私たちのコミュニティ全体から寄せられた心からの感謝の意をドイルも共有します。既に国民の皆様にお伝えした通り、ドイツ政府には抗議しました。今の所、ドイルで私がこの案件についてこれ以上お話しする事は期待されていないでしょう。 戦後、西ドイツは誤爆の責任を認め、1958年までにマーシャル・プランの援助金を使って327,000ポンドの賠償金を支払った。2,000件以上の賠償請求がアイルランド政府によって処理され、最終的な賠償額は344,000ポンドに達した。1941年時点でナチス・ドイツの一部だった東ドイツとオーストリアは賠償金の支払いを分担しなかった。1953年のロンドン債務協定(英語版)で金額が確定し、最大限の補償が可能になった。
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