タントラとセクシャリティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:45 UTC 版)
「Osho」の記事における「タントラとセクシャリティ」の解説
Oshoはインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ、と言い、もし人間がセクシャリティを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ、と説いた。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は言う。瞑想に入るための準備としての多様なセラピーや、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導した。 「人間には多くのエネルギーがあるのではない、たった一つのエネルギーしかない。最も低いところではそれは「性エネルギー」と呼ばれる。それを瞑想を通じて、瞑想の錬金術を通じてさらに純粋なものにし、さらに変容させ続けていくと、その同じエネルギーが上に向かって動き始める。セックスは粗野な、なまのものであり、鉱床のなかで見つかるダイヤモンドのようなものだ。それはカットされ、磨かなければならない。そうして初めてそれはダイヤモンドと認められるようになる。性はなまのエネルギーだ。それは変容されねばならない、そして変容を通じて超越が起こる。性は自然な現象だが、宗教はそれを変容するどころか抑圧してきた。それを抑圧すれば、自然な結果として倒錯的な人間が生まれてくる。彼はセックスにとりつかれるようになる。性は最も重要な現象のひとつであり、実際には、人間の生でいちばん重要な現象だ。セックスはあなたの最も低い中枢であり、サマーディ―は至高の、第七の中枢だ。それは七段のはしごだ。性エネルギーは一段また一段と第七段階まで昇ってゆかなければならない。そこでそれは一千の花弁を持つハスのように花開く。性が変容されて初めて人はブッダになる」と、Oshoは言う。
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