セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬
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「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬」の解説
セバストポリでは、軍、市民を動員して外郭防衛線の構築が始まっていたが、ドイツ軍がセヴァストポリに迫った10月末では、3層ある防衛線の最外郭のものはまだ未完成だったが、それでも堅固な防衛陣地だった。10月末の時点でセヴァストポリの守備要員は艦隊から抽出した海軍歩兵部隊主体の約7000人程度で、長大な外郭防衛線を防衛するには、まったく兵員不足だった。10月31日に、ドイツ軍のジーグラー戦闘団はシンフェロポリ=セヴァストポリ道路上で、セヴァストポリの外郭防衛線に到達した。 11月9日には、ドイツのLIV軍団はセヴァストポリの北側から、XXX軍団(ハンス・フォン・ザルムート歩兵大将)はセヴァストポリの東側よりセヴァストポリを包囲した。ペトロフの独立沿岸軍のセヴァストポリへの撤退もその頃までには終わり、セバストポリへ撤退出来た兵員は約17000人だった。ペトロフは、セヴァストポリの防衛を4つの区分(セクター)に分け、時計方向順に北から、セクターIV:ベルベック川峡谷、セクターIII:Mekenzievy山地域、セクターII:チェルナヤ川峡谷とFedykhiniy高地(ドイツ軍呼称イタリア高地)、セクターI:海岸道とバラクラヴァ周辺、と組織化した。ソ連軍は、ドイツ軍の最初の総攻撃時、守備軍として約27000人の兵員を保持していた。 XXXXII軍団のケルチ半島での戦闘は依然続いておりこれからの兵力転用はできず、直轄砲兵団の展開は不十分で、空軍の支援も微弱でセヴァストポリ戦線ではソ連軍が航空優位だったが、マンシュタインは、ソ連側の防衛はそれほど強固でないだろうという希望的観測にもとづいて、11月12日にセヴァストポリへの総攻撃を命じた。この攻勢は、LIV軍団(セクターIIIとIV)では、ソ連軍の反攻もあり外郭防衛線のいくつかの塹壕、掩体壕を占領したレベルで終わった。XXX軍団(セクターIとII)では、バラクラヴァ市街を眺望できる高地まで前線を進めることができたが、戦艦Parizhskaya Kommunaを含む黒海艦隊艦艇の砲撃もあり、それ以上の前進は出来ず攻勢は11月21日に打ち切られた。双方とも2000人近い損害を出した。 その後、両軍共、増強に努めたが、ソ連側では、第388師団(11197人)が12月8日までにコーカサスよりセヴァストポリに到着し、12月中旬にはペトロフ傘下の戦闘部隊は、約46000人を数えるに至った。当時、クリミアのドイツ空軍は微弱で、これらの増援を阻止することは出来なかった。11月19日には、スタフカはレフチェンコを解任して、セヴァストポリの陸戦についてはペトロフが指揮を執ることになった。 ドイツ側では、ケルチ半島の戦闘が終息したので、マンシュタインはXXXXII軍団から第46歩兵師団とルーマニア軍2個旅団を除いて、残りすべてをセヴァストポリ攻囲にあてることにし、セヴァストポリ戦線では2個師団を追加して計6個師団(北から順に22,132,24,50,170,72)となった。しかし、いずれの部隊も開戦より6ヶ月近い攻勢作戦の連続で損耗していてその戦闘能力は大幅に低下していた。さらにソ連軍が撤退時にドニエプル河の鉄橋を爆破していったので、クリミアのドイツ軍は補給上の大きな問題を抱えていた。既に、夜間気温は摂氏マイナス20度近くまで冷え込み、夏季軍装で野営を余儀なくされるドイツ軍に寒気は堪え、士気は低下した。マンシュタインは、軍の状態が回復するまで包囲持久の方針を採りたかったが、ヒトラーは強硬で、できるだけ早くセヴァストポリを陥落させよ、と要求した。そこで、二回目の総攻撃が12月に行われることになった。 マンシュタインは、ルーマニア軍の戦闘能力を信用していなかったので、11月の総攻撃時には、ルーマニア山岳軍団(ゲオルゲ・アヴラメスク少将)は山間部の残敵掃討作戦を割り当てられていたが、とにかく兵員数が必要だったので、ルーマニア第1山岳旅団もセヴァストポリ攻囲に参加することになった。さらに、直轄砲兵団の展開と弾薬集積もすみ、空軍の支援も11月の総攻撃時と比べると格段に強化された。 ドイツ軍の第二回総攻撃は、12月17日に始まった。主攻は第22師団によるセクターIV(ベルベック川峡谷)と132,24師団によるセクターIII(Mekenzievy山)で、副次攻撃は第50歩兵師団とルーマニア第1山岳旅団で、セクターII:イタリア高地に対して行われた。セクターIのバラクラヴァ方面は、防衛が強化されていると判断されたので攻撃は行われなかった。直轄砲兵団による砲兵支援は、セクターIVとセクターIIIに対して重点的に行われた。28日まで続いた激戦で、ドイツ軍は攻撃力をほとんど使い果たしたが、攻撃は30日まで続き、セクターIVでは、22師団はベルベック川を越えその南岸まで前進した。セクターIIIでは、132師団と24師団がMekenzievy山鉄道駅を攻略し、その南の高射砲陣地(ドイツ軍呼称 フォート・スターリン)の前面まで到達した。セクターIIでは、イタリア高地の争奪線が続いたが、ほとんど前線を進めることは出来なかった。26日にソ連軍がケルチ周辺に、さらに29日にはフェオドシアに上陸した知らせをうけて、30日に攻勢は中止になり、第170歩兵師団は直ちにケルチ半島へ向かうよう命じられた。第二回の総攻撃で、LIV軍団は7732人(死者、行方不明1636人を含む)を失い、XXX軍団は、ドイツ軍863人、ルーマニア軍1261人を失った。一方、ソ連軍は、捕虜6000人を含む少なくとも17000人を失った。しかし、ペトロフは、ドイツ軍の総攻撃の間も兵員の増援と弾薬補給を、コーカサスより受けていた。
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