セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬の意味・解説 

セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:45 UTC 版)

クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬」の解説

セバストポリでは、軍、市民動員して外郭防衛線の構築始まっていたが、ドイツ軍セヴァストポリ迫った10月末では、3層ある防衛線の最外郭のものはまだ未完成だったが、それでも堅固な防衛陣地だった。10月末の時点セヴァストポリ守備要員艦隊から抽出した海軍歩兵部隊主体の約7000程度で、長大外郭防衛線を防衛するには、まったく兵員不足だった。10月31日に、ドイツ軍ジーグラー戦闘団シンフェロポリ=セヴァストポリ道路上で、セヴァストポリ外郭防衛線に到達した11月9日には、ドイツLIV軍団セヴァストポリ北側から、XXX軍団(ハンス・フォン・ザルムート歩兵大将)はセヴァストポリ東側よりセヴァストポリ包囲したペトロフ独立沿岸軍のセヴァストポリへの撤退その頃までには終わりセバストポリ撤退出来た兵員は約17000人だった。ペトロフは、セヴァストポリ防衛4つ区分(セクター)に分け時計方向順に北からセクターIV:ベルベック川峡谷セクターIII:Mekenzievy山地域、セクターII:チェルナヤ川峡谷とFedykhiniy高地(ドイツ軍呼称イタリア高地)、セクターI:海岸道とバラクラヴァ周辺、と組織化したソ連軍は、ドイツ軍最初総攻撃時、守備軍として約27000人の兵員保持していた。 XXXXII軍団ケルチ半島での戦闘依然続いておりこれから兵力転用はできず、直轄砲兵団の展開は不十分で、空軍支援微弱セヴァストポリ戦線ではソ連軍航空優位だったが、マンシュタインは、ソ連側防衛それほど強固でないだろうという希望的観測もとづいて11月12日セヴァストポリへの総攻撃命じた。この攻勢は、LIV軍団(セクターIIIIV)では、ソ連軍の反攻もあり外郭防衛線のいくつかの塹壕掩体壕占領したレベル終わったXXX軍団(セクターIとII)では、バラクラヴァ市街眺望できる高地まで前線進めることができたが、戦艦Parizhskaya Kommunaを含む黒海艦隊艦艇砲撃もあり、それ以上前進出来ず攻勢11月21日打ち切られた。双方とも2000人近損害出したその後両軍共、増強努めたが、ソ連側では、第388師団(11197人)が12月8日までにコーカサスよりセヴァストポリ到着し12月中旬にはペトロフ傘下戦闘部隊は、約46000人を数えるに至った当時クリミアドイツ空軍微弱で、これらの増援阻止することは出来なかった。11月19日には、スタフカレフチェンコ解任して、セヴァストポリ陸戦についてはペトロフ指揮執ることになったドイツ側では、ケルチ半島戦闘終息したので、マンシュタインはXXXXII軍団から第46歩兵師団ルーマニア軍2個旅団除いて残りすべてをセヴァストポリ攻囲にあてることにし、セヴァストポリ戦線では2個師団追加して計6個師団(北から順に22,132,24,50,170,72)となった。しかし、いずれの部隊開戦より6ヶ月近い攻勢作戦連続損耗していてその戦闘能力大幅に低下していた。さらにソ連軍撤退時にドニエプル河の鉄橋爆破していったので、クリミアドイツ軍補給上の大きな問題抱えていた。既に、夜間気温摂氏マイナス20近くまで冷え込み夏季軍装野営余儀なくされるドイツ軍寒気堪え士気低下したマンシュタインは、軍の状態が回復するまで包囲持久方針を採りたかったが、ヒトラー強硬で、できるだけ早くセヴァストポリ陥落させよ、と要求した。そこで、二回目総攻撃12月行われることになったマンシュタインは、ルーマニア軍戦闘能力信用していなかったので、11月総攻撃時にはルーマニア山岳軍団(ゲオルゲ・アヴラメスク少将)は山間部残敵掃討作戦割り当てられていたが、とにかく兵員数必要だったので、ルーマニア第1山岳旅団セヴァストポリ攻囲参加することになった。さらに、直轄砲兵団の展開と弾薬集積もすみ、空軍支援11月総攻撃時と比べる格段に強化された。 ドイツ軍第二回総攻撃は、12月17日始まった。主攻は第22師団によるセクターIV(ベルベック川峡谷)と132,24師団によるセクターIII(Mekenzievy山)で、副次攻撃は第50歩兵師団ルーマニア第1山岳旅団で、セクターII:イタリア高地に対して行われたセクターIのバラクラヴァ方面は、防衛強化されていると判断されたので攻撃行われなかった。直轄砲兵団による砲兵支援は、セクターIVセクターIIIに対して重点的に行われた28日まで続いた激戦で、ドイツ軍攻撃力をほとんど使い果たしたが、攻撃30日まで続きセクターIVでは、22師団はベルベック川を越えその南岸まで前進したセクターIIIでは、132師団24師団がMekenzievy山鉄道駅攻略し、その南の高射砲陣地(ドイツ軍呼称 フォート・スターリン)の前面まで到達したセクターIIでは、イタリア高地争奪線が続いたが、ほとんど前線進めることは出来なかった。26日ソ連軍ケルチ周辺に、さらに29日にはフェオドシアに上陸した知らせをうけて、30日攻勢中止になり、第170歩兵師団直ちケルチ半島へ向かうよう命じられた。第二回総攻撃で、LIV軍団は7732人(死者行方不明1636人を含む)を失いXXX軍団は、ドイツ軍863人、ルーマニア軍1261人を失った一方ソ連軍は、捕虜6000人を含む少なくとも17000人を失った。しかし、ペトロフは、ドイツ軍総攻撃の間も兵員増援弾薬補給を、コーカサスより受けていた。

※この「セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬」の解説は、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の解説の一部です。
「セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬」を含む「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事については、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬」の関連用語

1
4% |||||

セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



セヴァストポリ攻囲 - 1941年冬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのクリミアの戦い (1941年-1942年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS