シムラ会議の背景とシムラ協定とは? わかりやすく解説

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シムラ会議の背景とシムラ協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 00:16 UTC 版)

アルナーチャル・プラデーシュ州」の記事における「シムラ会議の背景とシムラ協定」の解説

辛亥革命によって同君連合としての政体君臨していた清朝滅亡し、その遺領再編問題になった際、チベットモンゴル民族政権は、「文殊皇帝」(=清朝皇帝)が退陣した結果、その支配下にあった中国チベットモンゴルなどの諸国それぞれ対等別個の国家となったという立場をとり、チベットモンゴル二国それぞれ独立国家として国際承認を受けることを目指し国際社会への働きかけ着手した一方漢人共和主義者たちは、自分たちがつくる共和国を、単に漢人土地のみを国土とする漢人国家とはせず、清朝臣属していた諸民族分布領域枠組とする中国設定し自身共和政を、その「中国」の「中央政府」と位置づける立場をとり、チベットモンゴル民族政権服属目指しそれぞれ戦火交えた。この紛争調停するべく、モンゴルにはロシアチベットにはイギリス後ろ盾となって開催されたのが、シムラ会議1913年-1914年)、キャフタ会議1915年5月15日)である。 この二つ会議では、チベットモンゴル独立国家として承認せず、中華民国宗主権下で完全な内政自治行使するとどめること、チベット青海西康部分モンゴル内蒙古部分中国政府統治下におかれ、チベットモンゴルの両民族政権それぞれの国土中核部分チベット西蔵部分モンゴル外蒙古部分)だけを管轄すること、などを骨子とする協定案が、それぞれとめられた。 1911年辛亥革命経て清朝主権弱体化したことを契機としてモンゴル独立運動高揚しモンゴルハルハ地方外蒙古)の諸王公はロシア帝国の力を頼って清からの独立決意し1912年新たにモンゴル国ボグド・ハーン政権)が成立した1913年-1914年シムラ会議では、ガンデンポタン(=チベット政府)が内政自治権行使する領域境界について合意成らずシムラ条約批准1914年)はイギリスチベットの2者のみの参加とどまったチベット中国北京政府)の紛争調停したシムラ会議で、イギリス全権つとめたマクマホン卿は英領インドアッサム地方チベットとの境界チベット側に受諾させた。これがマクマホンラインである。以後チベット中国との間では、しばしば戦火交える緊張状態が続く。 1915年キャフタ会議では、中国北京政府)、ロシア帝国モンゴル国ボグド・ハーン政権)がキャフタ協定調印批准して以後この協定にもとづく安定した関係が築かれた。

※この「シムラ会議の背景とシムラ協定」の解説は、「アルナーチャル・プラデーシュ州」の解説の一部です。
「シムラ会議の背景とシムラ協定」を含む「アルナーチャル・プラデーシュ州」の記事については、「アルナーチャル・プラデーシュ州」の概要を参照ください。

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