グラントの任期
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「大不況 (1873年-1896年)」の記事における「グラントの任期」の解説
大不況は1873年恐慌を引き金として発生した。全米経済研究所では、パニックにひき続いて発生した不況は1873年の10月から始まり、1879年の3月まで続いたとしている。同研究所の定義に拠れば、65ヶ月間というのは史上最長の不況であり、世界大恐慌の時の43ヶ月間を上回っている。ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツの図が示すように、国民純生産は1869年から1879年にかけて年平均3%増加し、実質国民総生産は同じ時期に年平均6.8%増加した。しかし、1869年から1879年の間、米国の人口は17.5%以上も増加しており、一人当たりの国民純生産の増加は人口増加率よりも低かった。1879年の出来事の後、米国経済は依然として不安定なままであり、1901年1月までの253ヶ月のうち114ヶ月間は不況であった。 物価の劇的な変化が、名目賃金を押し下げた。米国では、名目賃金は1870年代に四分の一減少し、ペンシルベニア州などの一部の地域では半分まで落ち込んだ。実質賃金は米国南北戦争の後も力強く伸びており、1865年から1873年にかけて25%増加したものの、1880年代までに実質賃金の増加は伸び悩み、実質成長はなくなった。再び実質賃金が増加するのは1880年代末のことである。綿花の価格崩壊は、既に戦争によって疲弊した米国南部の経済を更に壊滅させた。農産物価格は劇的に下がったものの、米国の農業生産高は増大し続けた。 米国企業の多くが倒産し、10億ドル以上の負債が債務不履行に陥った。ニューヨークの労働者4人に一人が、1873年から1873年の冬の間失業しており、国全体では100万人が新たに失業した。 最も生産が減少したセクターは、製造業、建設業、そして鉄道事業であった。鉄道は危機以前は長年にわたって驚異的な成長のエンジンとなっており、1867年から1873年にかけて鉄道の敷設距離は50%増加した。危機の前の数年間は、米国の設備投資の20%が鉄道に投下されていたが、この鉄道事業の拡大も1873年には劇的に幕を閉じた。1873年から1878年にかけて、米国の鉄道敷設距離はほとんどと言って良いほど増加しなかった。アメリカは最初の全国的な1877年の鉄道大ストライキに耐えた。 フリードマン貯蓄銀行は、経済危機の典型的な犠牲者だった。南北戦争の後の1865年に公認されたフリードマン貯蓄銀行は、米国で新たに解放された解放奴隷(フリードマン)の経済的福祉を支援するために設立された。1870年代初頭に、フリードマン貯蓄銀行は投機ブームに手を染め、不動産や鉄道への無担保融資に投資した。この投資が1874年に失敗し、アフリカ系アメリカ人にとっては手痛い打撃となった。 不況によって、ユリシーズ・グラント大統領は痛烈な政治的犠牲を払うこととなった。歴史家のアラン・ネビンスは、グラントの大統領生命の終わりだと述べている。 いくつもの政権が経済の低迷により退陣を余儀なくされたが、グラント大統領の退陣ほど国内において無能で不名誉なものはなかった。グラント大統領は政策も打ち出せず、大衆の人気もなかった。大統領は改革派や捜査当局の砲火を浴びて、やむを得ず内閣再編を行なった。新内閣の半数は全くの未経験者で構成されており、また数人は疑惑の渦中の人物、一人は不祥事を起こした。その結果、省庁の職員の大半はやる気をなくした。党は、暗黙に次の政権は現政権とは全く異なるものになると訴えて、有権者に投票してくれるよう求めた。その年は、この100年で最も深刻な経済恐慌の年であり、国はほとんど指導者不在の状態となった。
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