クビライの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:37 UTC 版)
モンケの死後、クビライの治世が始まると、高智羅は計音を与えられて漢地・河西の儒士全てを統括する地位を授与された。儒者の統括を任された高智耀は駅奴となっていた儒者の救済などを行ったが、その一方で高智耀は儒者とは言えない者まで儒士に登録し、その数は3〜4000 人に及んだ。この件で クビライに呼び出され詰問を受けた高智耀は「金にも様々な品質のものがあって一概に『これは金ではない』と言えないように、多様な人材がいる儒士の一部を指して『この者は儒士ではない』と言うことはできません」と語ってクビライの追求を免れたという。これらの出来事は1261年(中統2年)から1264年(中統5年)にかけて、すなわちクビライとアリク・ブケの間で帝位継承戦争が行われていた真っ只中のことであり、旧西夏領はクビライ派の左翼軍(カダアンら)とアリク・ブケ派の右翼軍(アラムダール・クンドゥカイら)がぶつかる主戦場となっていた。この時高智耀に大きな権限が与えられ、なおかつその極端な振る舞いが概ね認められていたのは、旧西夏領に大きな影響力を有する高智耀を懐柔し内戦を有利に運ぶという意図があったためと考えられている。 1267年(至元4年)、高智耀はクビライに中国には御史台という監察機関があったことを紹介し、是非モンゴルにもこれを導入すべきであると上奏した。これを受けて、 翌1268年(至元5年)には御史台が設立され、このような設立経緯故に高智耀の子孫は代々御史台系列の官職に進むようになる。その後、権臣アフマド・ファナーカティーの一派によって儒士の徭役免除を撤廃しようとする計画が立てられると、高智耀は孟嘗君が多数の食客を養っていた故事を引いて儒士を保護すれば国の統治にいずれ役立つであろうことを説いてクビライを説得し、高智耀の説得を受け容れてクビライはアフマドらの献策を却下した。 1270年(至元7年)頃、高智耀はクビライの命によって西夏中興等路の提刑按察使とされた。しかし、高智耀は旧西夏国領で横行する仏教僧の不法行為を積極的に取り締まらず、その振る舞いを助長させたため、弾劾を受けて提刑按察使の地位を解任されてしまった。『元史』世祖本紀によると、高智耀らの取り締まりは1270年(至元7年)3月に尚書省より提案され、同年11月には「西夏提刑按察司・管民官(高智耀ら)」に無統制状態にあった仏教僧の取り締まりが正式に命じられた。翌1271年(至元8年)3月には以上の経緯を受けて新たに「西夏中興等路行尚書省」が設置され、戸口條画を定めた。また、同年(至元8年=辛未=ヒツジ年)には高智耀に対して「ヒツジ年の聖旨(ジャルリグ)」がクビライより発令され、この聖旨は高智耀自身にとってはさほど大きな意味を持たなかったものの、モンゴルによって征服された後の旧南宋領では儒士保護の法的根拠として重要視されるようになる。 1276年、シリギらトゥルイ系諸王はアルマリクで反乱を起こしてクビライの第3子ノムガンを捉え、使者をクビライの下に派遣してその正当性を糾弾した(シリギの乱)。これに対し、クビライはシリギらのもとに派遣する使者として高智耀を選んだ。高智耀は志願してこの任務についたとされるが、実際には前述の失態・解任を挽回する意図があったと考えられている。しかし、その途上で高智耀は66歳にして病死し、クビライよりその死に哀悼の意を示したという。 高智耀の死後は同じく西夏出身の梁氏との間に生まれた高睿が後を継いだ。
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