シリギの乱とは? わかりやすく解説

シリギの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 02:36 UTC 版)

シリギの乱(シリギのらん)は、1276年から1282年にかけてシリギトク・テムルトルイ系諸王が大元ウルス皇帝のクビライに対して起こした叛乱である。叛乱自体はクビライの迅速な対応と叛乱勢力の内部対立によって早期に鎮圧されたものの、この叛乱によって中央アジアにおける大元ウルスの威信の低下とカイドゥ・ウルスの拡大が決定的となり、その後の中央アジア情勢に多大な影響を残した。


  1. ^ 「シリギの乱」以前にも、「北部王」がクビライの使者を殺害した事件や、「北方諸王」が叛乱を起こした事件などが記録されている(村岡1985,312-313頁)
  2. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「至元十二年、従北安王北征。十三年、失列吉叛、遣人誘脅之、牙忽都不従、事王益忠謹……。未幾、失列吉・薬木忽児・脱帖木児等反、以兵攻王。脱帖木児生致牙忽都、使失列吉拘系之」
  3. ^ この「西北藩王」はかつてカイドゥとその一党を指すものと考えられていたが、村岡倫の研究によって実際には旧アリクブケ派諸王を指すものであると明らかになっている(村岡1985,314-317頁)
  4. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「会西北藩王遣使入朝、謂『本朝旧俗与漢法異、今留漢地、建都邑城郭、儀文制度、遵用漢法、其故何如』」
  5. ^ 村岡1985,317頁
  6. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「伯八、晃合丹氏……至元十二年、親王昔列吉・脱鉄木児叛、奔海都。伯八以聞、且願提兵往討之、未得命、為彼所襲、死焉」
  7. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「至元十四年、叛王脱脱木・失列吉入寇諸部曲見掠先朝大武帳亡焉。土土哈王憤之、誓請決戦」
  8. ^ 『元史』巻118列伝5忽憐伝,「忽憐、尚憲宗女伯牙魯罕公主。後脱黒帖木児叛、世祖命忽憐与失列及等討之、大戦終日、脱黒帖木児敗走、帝嘉之、復令尚憲宗孫女不蘭奚公主」
  9. ^ 杉山2004,150-151頁
  10. ^ a b 『満州金石志』巻4 張氏先塋碑。『新元史』巻115列伝12,「至元十四年、斡羅陳弟只児瓦台叛、夾斡羅陳北去、並窃太祖所賜誓券。未幾、斡羅陳為只児瓦台所殺、其左右張応瑞逃帰、世祖嘉之、賜鈔五百緡、命応瑞輔斡羅陳子諦瓦不剌、収其部衆」
  11. ^ 杉山2004,300頁
  12. ^ 『元史』巻120列伝7朮赤台伝,「哈答子脱歓、亦嘗従諸王徹徹都討只児火台、獲之」
  13. ^ 『元史』巻121列伝8博羅歓伝,「十四年、討叛臣只里斡台於応昌、平之」
  14. ^ a b 『元史』巻123列伝10苫徹抜都児伝,「苫徹抜都児、欽察人。……十四年、従討叛人只里瓦歹於懐剌合都、改宣武将軍・滁州路総管府達魯花赤」
  15. ^ 『元史』巻132列伝19杭忽思伝,「杭忽思、阿速氏。……時失烈吉叛、詔伯答児領阿速軍一千往征之、与甕吉剌只児瓦台軍戦于押里、復与薬木忽児軍戦于禿剌及斡魯歓之地」
  16. ^ a b 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「玉哇失、阿速人。……只児瓦歹叛、率所部兵撃之、至懐魯哈都、擒其将失剌察児、斬于軍、其衆悉平」
  17. ^ 『元史』巻133列伝20昔都児伝,「昔都児、欽察氏。……十四年、従諸王伯木児追撃折児凹台・岳不忽児等於黒城哈剌火林之地、平之」
  18. ^ 『元史』巻135列伝22阿答赤伝,「伯答児従別急列迷失北征、与甕吉剌只児瓦台戦于牙里伴朶之地、以功受上賞」
  19. ^ a b 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「[耶律]元臣、別名哈剌哈孫……[至元]十四年、只児瓦台叛、囲応昌府、時皇女魯国公主在囲中。元臣以所部軍馳撃、只児瓦台敗走、追至魚児濼、擒之、公主賜賚甚厚、奏請暫留元臣鎮応昌、以安反側」
  20. ^ 『元史』巻154列伝41洪福源伝,「俊奇小字茶丘、福源第二子也。……十四年……二月、率蒙古・高麗・女直・漢軍、従丞相伯顔北征叛臣只魯瓦歹等」
  21. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「至元十四年、叛王脱脱木・失列吉入寇諸部曲見掠先朝大武帳亡焉。土土哈王憤之、誓請決戦……四月、只児瓦䚟搆乱応昌、脱脱木以兵応之、与我軍遇将決戦。先得其斥候数十、脱脱木懼而引去、遂滅只児瓦䚟」/『元史』巻128列伝15土土哈伝
  22. ^ 『元史』巻133列伝20脱歓伝,「脱歓、札剌児台氏。……十四年春、授懐遠大将軍・太平路総管府達魯花赤。会只里瓦帯寇北辺、帝命脱歓往討之、戦、左臂中流矢二、帝慰労之、賜鎧甲・弓矢・鞍勒・鈔千五百緡」
  23. ^ 村岡1985,320頁
  24. ^ 『集史』「クビライ・カアン紀」には「突然、ベクレミシュが率いる指揮するカアンの軍勢が到着した。(オゴデイとチャガタイ)の諸オルドに、バトゥの諸子とカイドゥの到着は虚言であることが明らかになった」と記されている。なお、早い段階で離脱したためか、「シリギの乱」に参加したオゴデイ・チャガタイ系諸王の名前はオゴデイ系メリク家のトクを除いて記録されていない(村岡1985,319頁)
  25. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「六月逐其兵於禿兀剌河」
  26. ^ 『元史』巻132列伝19杭忽思伝,「時失烈吉叛、詔伯答児領阿速軍一千往征之……復与薬木忽児軍戦于禿剌及斡魯歓之地」
  27. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「[至元]十四年、兀魯兀台・伯顔帥師討叛、失列吉・薬木忽児迎戦、牙忽都潜結赤斤帖木児・禿禿哈乱其陣。失列吉軍乱、因得脱走」
  28. ^ 1277年の一連の戦いについて、『集史』「クビライ・カアン紀」は「トク・テムルとサルバンは、シリギに加わり共にカアン(クビライ)の諸軍と戦った」と簡単に記すに留まる(村岡1985,321頁)
  29. ^ 『集史』「クビライ・カアン紀」は「トク・テムルとシリギとサルバンは闘争し、バアリン部族の方へ向かい、イルティシュ河の流域で、それぞれ[戦いの]準備に忙しく従事した」と記す(村岡1985,321頁)
  30. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「劉国傑、字国宝、本女真人也……。十六年、諸王脱脱木反、寇和林。国傑度其衆悉至、営中必虚、選軽騎襲之、獲其衆万計。脱脱木屡戦不利、又残暴、失衆心、衆殺之来降」
  31. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年春正月]丁卯、諸王札剌忽至自軍中。時皇子北平王以軍鎮阿里麻里之地、以御海都。諸王昔里吉与脱脱木児・薬木忽児・撒里蛮等謀劫皇子北平王以叛、欲与札剌忽結援於海都、海都不従。撒里蛮悔過、執昔里吉等、北平王遣札剌忽以聞」


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シリギの乱

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ヨブクル」の記事における「シリギの乱」の解説

しかし帝位継承戦争アリクブケについたモンケ王家アリクブケ王家諸王クビライ対す反感抱き続けており、彼等北平ノムガン主将とする中央アジア遠征軍従軍する中でモンケの子シリギ首班として叛乱起こしノムガン及びアントン捕縛した(シリギの乱)。叛乱首謀者ソゲドゥ王家トク・テムルであり、首班シリギであったが、アリクブケ息子であるヨブクルメリク・テムルもまた叛乱軍の主要人物一人としてクビライ統治する大元ウルス敵対したシリギ中心とする叛乱軍と元軍は主にモンゴル高原争いヨブクルもまた1軍率いてアスト軍を率いるベクタル(アダチの子)とトーラ川オルホン川流域にて戦った。しかし叛乱軍は頼りにしていたカイドゥ・ウルスの助力を得ることが出来ず、またクビライ南宋遠征従軍していたバヤンなどの有力な将軍投入したこともあって「シリギの乱」は比較早期鎮圧された。 しかし元軍の追撃逃れたモンケ家のウルス・ブカアリクブケ家のメリク・テムルらはカイドゥ・ウルスへと亡命しヨブクルは「シリギサルバンの諸オルド」を掠奪した上でカイドゥ協力関係にあるオルダ・ウルスジョチ・ウルス左翼部)当主コニチの下に逃れた。後にオルダ・ウルス方針変更してカイドゥとの協力関係断ったため、至元21年24年1284年1287年)ごろにはヨブクルが元軍と協力して窮地陥った北安ノムガン助けという事件が起こったこともあるが、結局ヨブクルオルダ・ウルスの下を離れ改めてカイドゥ・ウルスに所属した至元27年1290年)にカイドゥ大元ウルス侵攻した際にはヨブクルメリク・テムル従軍しヤクドゥ輜重掠奪している。

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