帝位継承戦争における怨恨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 15:40 UTC 版)
「シリギの乱」の記事における「帝位継承戦争における怨恨」の解説
シリギの乱の原因は1259年のモンケ・カアンの死に始まる帝位継承戦争に遡る。モンケの死を切っ掛けにその弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、クビライが帝国の左翼部(東道諸王や「左手の五投下」)の支持を得ていたのに対し、アリクブケはカラコルムに残留していた旧モンケ政権の幹部層(アラムダール、ブルガイら)、トルイ系諸王を主要な支持層としていた。 両軍は当初互角に戦いを進めていたものの、西方戦線におけるアラムダールとクンドゥカイの死亡や、シムルトゥ・ノールの戦いにおけるクビライ軍の勝利によってアリクブケ派は劣勢となり、遂にチャガタイ家のアルグの裏切りを受けるに至った。アリクブケは中央アジアに転戦してアルグを攻撃したものの、孤立無援に陥り1264年にクビライに降伏するに至った。 勝者となったクビライはトク・テムルらトルイ系諸王を寛大に扱い、内戦以前の地位をそのまま保証したが、トルイ系諸王のクビライに対する反発心は根強いものがあった。元アリクブケ派で、戦後もクビライに地位を保証されたトルイ系諸王が「シリギの乱」の中核となった。
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