クビライと元宗の王政復古とは? わかりやすく解説

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クビライと元宗の王政復古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)

モンゴルの高麗侵攻」の記事における「クビライと元宗の王政復古」の解説

高宗世子の王倎はカアンモンケ拝謁するため、モンゴル向かっていたが、1259年南宋遠征中のモンケ急逝上都開平府帰還中のクビライモンケの弟。後の元世祖)に拝謁した。さらに翌1260年春、今度高宗没したため王倎は帰国哀願クビライ帰国許可した即位して元宗称する)。4月12日モンゴル皇帝即位したクビライは王倎以下上朝臣帰服を嘉した。王倎が、モンゴル軍による掠奪免除捕虜・逃民を帰参させる許し求めると、5月13日に詔諭を下しこれを許可した6月、王倎が子の王僖を入朝させたことにより、国王冊封を受け王印虎符賜った以後元宗は度々モンゴル・元朝へ入貢行いモンゴル背景として権力安定図ったが、反モンゴル派はこれを不満として親モンゴル派との対立深める1268年林衍(イム・ヨン)らが権臣金俊暗殺する翌年には林衍らが親モンゴル派の崔坦(チェ・ダン)らとの確執により、元宗廃して弟の安慶公王淐を擁立する乱を起こしたクビライは、入朝していた世子王諶の、兵3,000と5カ月分の糧秣頂き私が同行すれば騒乱収められる、との献策受けて諶に3000将軍モンゲトゥ2000の兵を授け高麗へ派遣モンゴル軍瞬く間に乱を鎮圧した。さらに急死した林衍の跡を継ぎ高麗令公(高麗武人トップとなった林惟茂(イム・ユム)を文班の洪文系(ホン・ムンギェ)、宋礼(ソン・ソンネ)らが殺害高麗武臣政権終わりを告げ王政復古成った

※この「クビライと元宗の王政復古」の解説は、「モンゴルの高麗侵攻」の解説の一部です。
「クビライと元宗の王政復古」を含む「モンゴルの高麗侵攻」の記事については、「モンゴルの高麗侵攻」の概要を参照ください。

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