クビライの即位とサキャ派時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 10:09 UTC 版)
「サキャ派」の記事における「クビライの即位とサキャ派時代」の解説
1260年、クビライがモンゴル帝国の第5代ハーンに即位した。クビライのもとにいたパクパは1260年に帝師に任命され、元における仏教に関する全権を任された。1264年にはパクパのために最高統制院が作られた。また、パクパにアムド、カム、ウー・ツァンに対する政治的、宗教的権威を委ねた。 以後のモンゴルとチベットの関係を、単純に西欧的な意味での「宗主国・属国」という関係で見ることはできない。クビライは手紙の中でパクパに「私はあなたの保護者であり、ブッダの教えを広めることはあなたの務めである」と語っている。これはあくまでも個人と個人の関係である。皇帝は政治的な保護の権力を行使し、帝師はチベットだけでなく中国を含む全モンゴルに宗教的な影響を与えている。これ以後も1911年の辛亥革命まで、中国とチベットの関係は概ねこのようであった。チベットから見ればチベットの守護者観音菩薩と中国皇帝文殊菩薩は同格である。しかし中国から見れば中国皇帝と同格ということは定義上ありえず、両者の関係はチベットからみるか中国から見るかで大きく異なる。 マルコ・ポーロはクビライを補佐するチベット人(おそらくサキャ派の僧)について報告しており「チベット人は魔術を使い、大ハーンが飲みたいときには杯がひとりでに持ち上がり、空中を移動して彼の許にやってくる。彼らはもっとも危険な降霊術師、魔術師の人種である」と述べている。 1268年には、サキャ寺が創建された。防御が考えられ、サキャ派の教義を取り入れた建物になっている。 1270年、パクパはクビライに請われてモンゴル語を記述するためのパスパ文字を作っている。また、パクパの弟のチャクナはコデンの家系の王女を娶っている。 クビライは1288年に宣政院を設立し、サキャ派の長の帝師がここで指導し、チベットを支配することになった。パクパが1280年に死んでからも75年ほど、サキャ派はサキャ寺院を僧院都市として、モンゴル帝国が衰退するまで中央チベットを支配した。また、チベット全域に対しても大きな権限を持った。 モンゴルはチベットを13地域に分け、それぞれの領主を万戸長(ティポン)に任命して支配した。 1285年に、ラサ北東100kmほどの位置にあるディグンの万戸長がイルハン朝と結んで反乱を起こした。最初は勝ち進んだが、1290年にはサキャ派の軍隊に破れ、本山ディクン・ティルを焼き討ちされている。 10代目座主のデチェン・サンポ・ペルには7人の妻があり、13人の子があった。子の一人のクンガ・ロドゥが8代目帝師となった。彼は1347年、クン氏をシトク家、ラカン家、ドゥムチョー家、リンチェンカン家の4ラプダンにわけ、受け継いだ遺産も分割した。後にこの4ラプダンが対立し、代わりにカギュ派の支派パクモドゥ派が力をつけていった。サキャの小さな町は内乱寸前となり、モンゴルは1320年代末に宣政院を廃し、モンゴルとサキャ派の絆はなくなった。パクモドゥ派のチャンチュプ・ギェンツェンは反乱を起こし、1348年にツェルが、1350年にディグンが陥落した。チャンチュプ・ギェンツェンは1354年には中央チベット全域を支配するようになり、サキャ派の長と面談している。1358年にサキャ派の長は大臣に暗殺され、サキャ派のチベット支配が終わり、パクモドゥ派が支配するようになった。同時に、チベットは中国の支配を完全に脱した(その後のチベットは、モンゴルのような遊牧民族国家や清の支配を受けたり、宗教的影響を与えたりといった関係を続けていった)。
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