モンゴル・元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)
金が滅ぼされるとその領土は蔡州と陳州とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。 背信に怒ったモンゴル皇帝オゴデイは宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に1241年にオゴデイが崩御し、その後継を巡ってグユクとモンケの間で争いが起こり、最終的に1251年にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。 国内を安定させたモンケは弟のクビライに対して大理国の征伐を命じ、クビライはこれに応えて1253年に征服を完了。モンケ自身も1258年に親征し、クビライ・ウリヤンカダイを別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。 しかし1259年にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟のアリクブケの間で争いとなり、1264年にアリクブケが降伏してクビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、1267年になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、1276年に臨安を占領され、更に1279年に最後の皇帝衛王も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は陳朝に亡命した。
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