クビライ勢力の監査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 07:33 UTC 版)
1251年、カーンに即位したモンケは周辺諸地域の征服活動を再開し、西アジア方面では三弟フレグを、東アジア方面では次弟クビライを遠征軍の司令官に起用した。フレグが西方で快進撃を続ける反面、クビライは大理国の征服後華北の経営に専念し、最大の攻略対象たる南宋への攻撃を始めようとしなかった。このようなクビライの態度にモンケは不満を抱き、遂にクビライの遠征軍司令官からの更迭・アラムダールらによるクビライ領の監査が行われる事態に陥った。 この時アラムダールは陝西等処行尚書省左丞相として同参知政事劉太平らとともにクビライ領の京兆地方に乗り込み、クビライ領監査のため鉤考局を設置した。更にアラムダールは監査を進める中でクビライが設置した行政管理庁の宣撫司を締め上げ、その官吏の多くを処刑してしまった。この時難を逃れたのは劉黒馬・史天沢や廉希憲ら一部の者のみであり、これらの者達は後の帝位継承戦争にて皆クビライ側につきアラムダール及びアリク・ブケ勢力に敵対した。 このような事態に対し、クビライは姚枢の助言に従ってモンケに直接面会し釈明することとした。モンケとの面会によってクビライの容疑は晴れ、アラムダールはカラコルムに召還されて鉤考局も廃止されたが、クビライの権益は大きく損なわれたままとなっていた。
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