カンザスシティ・ロイヤルズ
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カンザスシティ・ロイヤルズ(英語: Kansas City Royals、略称: KC、ロ軍)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。ミズーリ州カンザスシティにあるカウフマン・スタジアムを本拠地として使用している。
- 1 カンザスシティ・ロイヤルズとは
- 2 カンザスシティ・ロイヤルズの概要
カンザスシティ・ロイヤルズ
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「ケビン・エイピアー」の記事における「カンザスシティ・ロイヤルズ」の解説
1987年のMLBドラフトでカンザスシティ・ロイヤルズから1巡目(全体9位)に指名を受け入団。1989年6月4日のカリフォルニア・エンゼルス戦でメジャーデビュー。しかし1勝4敗・防御率9.14と結果を残せず、7月にマイナー降格となった。1990年は当初敗戦処理的な起用だったが、6月から先発に定着。7月7日のデトロイト・タイガース戦では被安打1でメジャー初完投・初完封を記録。12勝8敗・防御率2.76の成績を残し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では3位に入った。 1991年は13勝10敗・防御率3.42、自身初の200イニングを記録。 1992年は15勝8敗・防御率はロジャー・クレメンスに次ぐリーグ2位の2.46だった。 1993年はリーグ4位タイの18勝8敗・防御率2.56で最優秀防御率のタイトルを獲得。防御率はメジャー全体でも3位の好成績だった(1位はグレッグ・マダックスの2.36)。サイ・ヤング賞の投票では3位に入る。 1994年は1994年から1995年のMLBストライキの影響もあって7勝に留まった。 1995年は自身初のオールスターゲームに選出され、2番手で登板し2回を無失点に抑えた。同年は15勝を挙げ、1996年は14勝11敗、キャリアハイの207奪三振を記録した。 1997年は援護がなく9勝13敗に終わったが、防御率は3.40、共にリーグ5位の235.2イニング・196奪三振を記録し、不動のエースとして君臨した。しかし1998年は僅か3試合の登板で1勝2敗・防御率7.80に終わる。 1999年7月31日に1対3の交換トレードでオークランド・アスレチックスに移籍した。
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カンザスシティ・ロイヤルズ
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「ビンス・コールマン」の記事における「カンザスシティ・ロイヤルズ」の解説
1994年1月5日にケビン・マクレイノルズとの交換トレードでロイヤルズに移籍。同年は1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られたが、104試合の出場で打率.240ながらケニー・ロフトンに次ぐリーグ2位の50盗塁、自己最多の12三塁打を記録し、復活の兆しを見せる。 1995年は好調だったが、8月15日に後日発表選手との交換トレードでシアトル・マリナーズに移籍する。
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カンザスシティ・ロイヤルズ
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「1969年のメジャーリーグベースボール」の記事における「カンザスシティ・ロイヤルズ」の解説
ミズーリ州カンザスシティには、1886年のみナショナルリーグに所属していたカンザスシティ・カウボーイズと、1888年から2年間アメリカン・アソシエーションに所属していた同名のチーム、その後1954年までマイナーリーグのアメリカン・アソシエーションに所属していたカンザスシティ・ブルース(ヤンキース傘下)が存在した。翌1955年にアスレチックスがペンシルベニア州フィラデルフィアから移転して来たが、1967年限りでカリフォルニア州オークランドに再移転。市民の失望と新球団への期待が大きかったため、アメリカンリーグはすぐに新球団の設立を承認した。当初は1971年に行われる予定だったが、急遽前倒しされた。これは2年前にブレーブスがウィスコンシン州ミルウォーキーからジョージア州アトランタへ移転する際に、ミルウォーキー市当局から訴訟を起こされるなどトラブルになり、その二の舞いを避けたかったことと、地元の有力な上院議員から3年間もチームが無い状態になるのは受け入れられない、と圧力があったことが理由と見られている。ロイヤルズの名称はカンザスシティで毎年開催される「アメリカン・ロイヤル・フェスティバル」から採用された。初代オーナーは地元財界の名士で製薬業で財を成したユーイング・コーフマン。GMにセドリック・タリス、ファーム担当部長にルー・ゴーマン、スカウト担当部長にチャーリー・メトロ、その他にジョン・シャーホルツ、シド・スリフトら後に名GMになった優秀な人材が揃った。初代監督にはアスレチックスでも采配を振るったジョー・ゴードンが就任し、本拠地はアスレチックスが使用していたミュニシパル・スタジアムをそのまま使用した。エクスパンションドラフトでは徹底して若手を指名し、30代の選手は3人だけであった。初年度は69勝93敗ながら地区4位と、他のエクスパンションチームが軒並み地区最下位に沈む中健闘を見せる。エクスパンションドラフトでパイロッツが指名し、その後トレードで獲得したルー・ピネラが打率.282・11本塁打の成績でルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出された。70年代中盤から強豪チームにのし上がり、1985年までに地区優勝6度、リーグ優勝2度、ワールドシリーズ優勝も達成。エクスパンションチームの中で最も模範とされる球団となった。
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