カルバ
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カルバ | |
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位置 | |
座標 : 北緯25度04分27秒 東経56度21分19秒 / 北緯25.07417度 東経56.35528度 | |
行政 | |
国 | アラブ首長国連邦 |
首長国 | シャールジャ首長国 |
市 | カルバ |
人口 | |
人口 | (2018年現在) |
市域 | 37,545人 |
その他 | |
等時帯 | アラブ首長国連邦標準時 (UTC+4) |
カルバ(アラビア語: كلباء Kalbāʾ、英語: Kalba)は、アラブ首長国連邦の都市である。長母音を省略せず、カルバーとも。
概要
オマーン湾に面するフジャイラの南にあるシャールジャ首長国の飛び地である。オマーンとの国境地帯にあるホール・カルバ(Khor Kalba خور كلباء)は、アラブ首長国連邦の主要なマングローブの原生林かつ自然保護区である。マングローブの樹種はヒルギダマシで、タイマイ、アオウミガメなどのウミガメおよびナンヨウショウビン、アラビアウタイムシクイなどの鳥類が生息している。付近の砂浜、塩性湿地、塩類平原およびアカシアが生える狭い沖積平野などを含む一帯は2013年にラムサール条約登録地となった[1]。
カルバは16世紀にポルトガル海上帝国の植民地となり、'Ghallah' と呼ばれていた。1811年3月にマスカット・オマーンのスルタンに占領されオマーン帝国の支配下となり、反海賊勢力の拠点となった。英国に承認された1936年からシャールジャに併合される1951年まで、トルーシャル・オマーンを構成する一首長国カルバ首長国[2][3]であった。
ホール・カルバはシュルーク[4]による観光地化(エコツーリズム)の為、現在閉鎖されており、一部の保護活動家や環境保護論者はこれに対して懸念を表明した。[5]
歴史
マージド・ビン・スルターン・ビン・サクル・アル=カースィミーが、シャマリーヤ地方(カルバを含む)を兄であるシャルジャ首長のサーリム・ビン・スルターン・アル=カースィミーから賜った事からカルバの統治は始まった。カルバでは、マージド・ビン・スルターンの二人の息子・ハマド・ビン・マージドと、アフマド・ビン・マージドの共同統治が続いた。
ハマドの息子のサイードが、1902年にフジャイラの独立の際に父・ハマドの後を継いで首長となった。一時期サイード・ビン・ハマドはカルバの統治を彼の奴隷のバルートに任せてアジュマンに引っ越したが、1920年代にサイードはカルバの統治に戻り、1936年には英国にカルバ首長国として認められ飛行場を設立し、インペリアル・エアウェイズがアル=マハッタとカルバを結ぶ臨時航路を就航させた。
交通
ホール・カルバへは、3本の道路でアクセスが可能。一つ目はマリハ・ロード(Maliha Road شارع مليحة)。二つ目がシャールジャ=カルバ・ロード(Sharjah-Kalba Road、シャルジャ国際空港を起点とする全長90km)で、三つ目がフジャイラ=カルバ・ロード(Fujairah-Kalba Road、80km)である。なお、フジャイラ=カルバ・ロードは隣国オマーンまで延びている。
統治者
- マージド・ビン・スルターン・アル=カースィミー(Majid bin Sultan al-Qasimi、1871年~1900年)
- ハマド・ビン・マージド・アル=カースィミー(Hamad bin Majid al-Qasimi、1900年~1903年)
実際の独立は1903年のシャルジャからの分離独立だが、現地では英国に国家承認された1936年と認識されている。
- サイード・イブン・ハマド・アル=カースィミー(Said ibn Hamad al-Qasimi、1903年4月30日~1937年)
- ハマド・イブン・サイード・アル=カースィミー(Hamad ibn Said al-Qasimi、1937年4月30日~1951年)
- サクル・イブン・スルターン・アル=カースィミー(Saqr ibn Sultan al-Qasimi、1951年~1952年、シャールジャ首長兼任1951年~1965年)
1952年 シャールジャに併合され、消滅。
脚注
- ^ “Mangrove and Alhafeya Protected Area in Khor Kalba | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2013年3月10日). 2023年4月14日閲覧。
- ^ Bey, Frauke (1982). From Trucial States to United Arab Emirates. UK: Longman. pp. 533. ISBN 0582277280
- ^ Qasimi, Sultan (1986). The Myth of Piracy in the Arabian Gulf. UK: Croom Helm. pp. 153. ISBN 0709921063
- ^ シュルーク - シャールジャ投資発展局(アラビア語: شروق - هيئة الشارقة للتطوير والاستثمار、英語: Shurooq - Sharjah Investment and Development Authority)
- ^ Todorova, Vesela (2012年5月20日). “Mangrove fears over Emirates eco-tourism project”. The National 2014年11月閲覧。
カルバ(ミンテロル一世)
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「宇宙英雄ペリー・ローダンの登場人物」の記事における「カルバ(ミンテロル一世)」の解説
アコン人に操られ帝位につく。アトランとの心理決闘の際、脳を活性化し過ぎたため発狂し、廃人となる。
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「カルバ」の例文・使い方・用例・文例
- 新事業は、テクニカルバリューよりもカスタムバリューが上回ることが多い。
- カルバマゼピンはてんかんの治療で用いられる。
- 彼はカルバン派の家庭に生まれた。
- 適正なテクニカルバリューの評定は、新製品開発において重要な過程である。
- ピラトの家からカルバリのはりつけまでのイエスの出来事の間の連続した逸話を表する連続した14の絵または彫刻の前で言われる14の祈りで成る礼拝
- カルバラーの戦いは毎年開催される時代劇の基礎である
- ローカルバス路線
- 神の慈悲(特にカルバン主義者によって考えられるように)の対象としての一部の個人の宿命
- ジョン・カルバンの絶対予定説に反対して、人間の自由意志が神の主権と互換性を持つと考える17世紀の神学(その創設者J・アルミニウスの名をとって名づけられる)
- カルバン信条のプロテスタント宗派
- オランダ人のプロテスタントの神学者で、ジョン・カルバンの絶対的な予定説に反対したアルミニウス説を創立した(1559年−1609年)
- 窒素肥料として用いられるカルバン酸の塩
- カルバミン酸の塩(またはエステル)
- 専らその塩(カルバミン酸アンモニウム)またはエステル(ウレタン)によって知られる酸
- カルバミン酸のエステル
- カルバンという人
- カルバミン酸エチルという化合物
- カルバドスというブランデー
- カルバン主義という,カルバンによって説かれたキリスト教の教義
- カルバン主義を信じるキリスト教徒
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