イラン・イラク戦争の時代 (1980年 - 1988年)
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「イランの国際関係」の記事における「イラン・イラク戦争の時代 (1980年 - 1988年)」の解説
イランの革命輸出戦略は、多くのアラブ諸国との関係を緊張させた。1981年にイランはバーレーン政府の転覆計画を支援。1983年にはクウェートにおけるシーア派による西側大使館爆破への政治的支持を表明。1987年、サウジアラビアのマッカで、巡礼中のイラン人が劣悪な待遇に反発して暴動を起こし鎮圧に際して多数の死傷者を出している。原理主義的運動の強いエジプトやアルジェリアなどの諸国はイランに不信感を抱きはじめた。イスラエルのレバノン侵攻にあたっては、イランはヒズボラの結成を支援したと考えられている。さらにイランはイスラエルの存在を非合法とみなし、中東和平交渉への反対を主張し続けた。 またヨーロッパ諸国との関係でも、イラン情報機関による在欧の急進反体制派の殺害により、特にフランスとドイツに懸念を抱かせることとなった。 イラクとの関係は歴史的に良好であったことがないが、1980年にはイラクがイランに侵攻し、さらに悪化することになる。侵攻の理由として明示されたのはアルヴァンド川(シャットルアラブ川)水面上における両国国境の確定問題であった。しかしながら明示されていない諸要因がより説得的なものである。すなわち、イラン・イラク両国が双方国内の分離主義運動を支援し、相互の干渉を行ってきていたことなどである。このような行動は1975年のアルジェ合意で停止されたが、イランは革命後にイラク領クルディスタンにおけるゲリラ活動支援を再開していた。イランは、両国が調印した1975年のアルジェ合意に基づき、アルヴァンド川の原状回復とイラン領内からのイラク軍の撤退を要求した。しかしこの時期、イランは孤立を深め、実質的に同盟国は皆無の状況であった。イランは戦争によって極端に疲弊し、アメリカ合衆国およびドイツによる対イラク化学兵器供給開始後の1988年7月に国際連合安全保障理事会決議598に署名。同8月20日、停戦が発効した。両国ともこの戦争から得た利益は皆無であった。両国で100万、うちイランは70万の死者を出し、これはイランの外交政策に劇的な影響を及ぼしたのである。こうしてイスラーム体制政府は、それまでの急進的政策目標を緩和、合理化する以外に道はないことを自覚した。アヌーシールヴァーン・エフテシャミーの言うイラン外交「再編」段階のはじまりであった。イラン・イラク戦争中、世界的に孤立したイランに対し、中国と北朝鮮は大量の軍事的な支援を行った。特に北朝鮮は当時イランに対する支援を理由にイランの敵国イラクから断交されており、親密なイランと北朝鮮の関係はイラン・イラク戦争によって生まれたといわれている。
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