「定説」への異議
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この「定説」には「捏造」が含まれているという説が作家の阿井渉介によって提唱された。阿井は、1986年(昭和61年)、静岡・日本平に「母子像」が建立された際、地元テレビ局静岡放送が制作した記念番組『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』の構成台本を依頼され執筆したが、このとき菊地本や、『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』に示された「定説」の事実関係に不審を抱き、のちに「定説」の矛盾点を追究するに至ったという。そして、著書『捏像 はいてなかった赤い靴』(徳間書店 2007年12月 ISBN 4-19-862458-5)において、「定説」には根拠がないとする批判を明らかにした。 阿井による説は以下の通りである。 きみの実父を佐野だとする菊地本には根拠がない。きみが戸籍上、佐野の養女になっているのは、私生児を祖父の戸籍に入れる措置に準じて考えるべき。 菊地本で養親に比定されている宣教師の名前は、正しくはヒューエット。ただしヒューエット夫妻と、きみの間には全く接点がない。「きみが宣教師の養女となった」という話は佐野がかよを安心させるためについた嘘であり、実は佐野が2歳のきみを東京の孤児院に預けて、きみはそこで一生を過ごしている。この時期、北海道で布教を行なっていたヒューエット夫妻が、北海道に渡ってもいないきみを養女とすることはありえない。 菊地本は「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」とするが、かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなかったはずで、自分が結婚前に私生児を産んだと進んで告白するとも思えない。野口家と鈴木家との親交は、夫同士の仕事上のつきあいに限られたものとおぼしい。 雨情の『赤い靴』は社会主義的ユートピア運動(空想的社会主義)の挫折の隠喩と解すべきで、社会主義者の伝道行商を象徴する『赤い箱車』と結びつけて考えるべきである。 阿井は、菊地は自分の取材不足を想像で埋めたとして「捏造」と論難しているが、これに対して菊地は自説の骨子には誤りはないと主張している。 また阿井は、野口雨情の実息である野口存彌による研究をもとに「童謡『赤い靴』を含む雨情の童謡に特定の個人を謳ったものはない」と主張している。一方、菊地は、『赤い靴』以外にも特定個人を謳った童謡は存在するとしている。『シャボン玉』の詩にある「生まれてすぐにこわれてきえた」という一節に、雨情は夭折した長女への哀悼をこめたとしており、詩の解釈論でも両者は対立している。 なお、「きみは宣教師の養女となって渡米したものと、かよは生涯信じきっていた」という「かよの観点からの真実」については両者に争いはない。その宣教師が「実在するヒュエット師」(菊地説)であるか、「佐野がでっちあげた架空の存在」(阿井説)であるかで、両者およびその支持者は対立しており、阿井は「きみと会ったこともない、全く無関係のヒューエット夫妻の名誉を、菊地はテレビ番組制作のための作り話で傷つけている」としている。 また、阿井は、雨情の『赤い靴』は「きみを謳ったものではない」と作家論からの立証を試みると共に、「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」という話は、「かよの思いこみによる自慢話を、娘そのや菊地が更に粉飾したもの」と批判している。ただし「雨情さんがきみのことを詩にしてくれた」と、かよがそのに語った事実は「あった」としている。そのため、「かよによる『赤い靴』の詩歌解釈」そのものは否定しきれていない。この点では「雨情の作家論」と「かよによる詩歌受容」と「菊地の追跡取材のプロセスの是非」を、両派ともに整理できず混交して論じているため、議論は噛み合っていない。 なお、「かよが雨情夫妻にきみのことを話した」とする、岡そのの証言および菊地本への反駁として、阿井は「かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなく、打ち明け話をするほど親しくはなっていない」ことについて綿密な検証を行なっている。だが、その一方で「鈴木が雨情にきみのことを話した」か、あるいは「雨情のほうから鈴木に家族のことを取材した」可能性の有無については両派とも論じていないため、「きみのことを雨情が知る機会があったか否か」についての検証はいまだ不充分である。 2009年(平成21年)8月、北海道函館市に「定説」に基づいて『きみちゃん像』が建てられたが、それを伝える新聞記事の中には、『赤い靴』をめぐっては諸説あることを指摘するものがあった。毎日新聞は「平民農場開拓を指導した幸徳秋水らによる社会主義ユートピア運動の「挫折」を歌ったものとする指摘もあり、野口の親族らからは「実在のモデルはなかった」との主張もされている」と報じている。 なお、雨情の童謡に特定の個人を謳ったものがあるかないかについては、親族間でも意見が分かれている。雨情の孫で野口雨情記念館代表の野口不二子は、『シャボン玉』に雨情は夭折した長女への哀悼をこめたと講演で語っている。「定説」に対するスタンスも、野口存彌と野口不二子では対照的で、野口存彌は「定説」に対して一貫して否定的だが、野口不二子は函館の『きみちゃん像』建立に向けての祝賀会で記念講演を行なっている。 ただし野口存彌も、童謡ではない雨情初期の詩作については、片山潜の社会主義論に傾倒していた野口茂吉(雨情の一つ年下のいとこ、1905年(明治38年)に横浜から渡米して1954年(昭和29年)にロサンゼルスで客死)の影響が大きかったとしている。雨情を研究している長久保片雲は、「社会主義を信じ、自由の天地アメリカに横浜から渡っていった、雨情の従兄たちの面影が『赤い靴』には投影されている」としており、この意見には阿井も半ば賛意を示しつつも、『赤い箱車』のイメージのほうを優先している。 野口不二子も近著『郷愁と童心の詩人 野口雨情伝』(講談社 2012年11月 ISBN 978-4-06-217924-9)の中で、『赤い靴』の4番は、茂吉を「ベースにして書いたとも思われる」としている。また「定説」については、「確証はない」としながらも、『赤い靴』について「何か下地になるような」体験が雨情にあったことは十分考えられるとしている。阿井説には全く触れていない。
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