SWS 他団体への影響

SWS

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 01:06 UTC 版)

他団体への影響

当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の選手だった天龍源一郎を筆頭に、谷津嘉章などの中堅選手とスタッフを多く引き抜かれた全日本プロレス[注釈 8]は一時、崩壊の噂も流れて当時の東京スポーツでも『全日本プロレス 崩壊危機』とも報じられた。しかし、残留した三沢光晴川田利明小橋健太菊地毅ら「超世代軍」と、鶴田率いる田上明渕正信小川良成ら「鶴田軍」[注釈 9]との抗争を軸に据えた。

SWSへ選手が大量離脱してしまい全日本プロレスは1972年の団体旗揚げ以来、最大のピンチ到来となった。しかし全日本は残留した選手の活躍や「SWSへ移った選手達に負けるな!」と、一致団結したこともあり勢いを盛り返した。全日本プロレス社長・ジャイアント馬場は、1999年1月に死去するまで天龍を始めとするSWSへの離脱組を再び全日本のリングへ上げなかった[注釈 10]。しかし天龍の全日本への参戦は、WAR社長の武井正智が主導となって幾度か交渉をした経緯がある。その交渉の際に馬場は「全日本が困った時には頼むかもしれないけど、今はいいから」と答えていたのもあり、完全な絶縁関係ではなかった[7]

だがその一方で、馬場から天龍が全日本に上がる条件として三沢達に土下座をして謝罪する事を要求した。しかし天龍は馬場に頭を下げるのなら分かるが、三沢達に対して土下座をする事には納得が出来ず、この話は御破算になったと発言している[8]。天龍の全日本への参戦は馬場没後の2000年に、選手の大量離脱による経営危機に伴って全日本からのオファーにより実現した。なお、後に天龍は三沢をSWSへ引き抜く計画があったことを証言しており、天龍が「今の給料の倍は出せるからどうだ」とSWSに来るように話したところ、三沢は「僕は今の状態で満足ですよ」と返答しており、天龍は「酒席での話だから、このことは忘れてくれよな」と三沢に告げたという[1]

新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去に第1次UWF長州力ら『維新軍団[注釈 11]』の離脱など、度々大規模な離脱劇に見舞われた過去があるため、今回の様なことにも慣れていた新日本のフロント陣は早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。同時に新日本プロレスからSWSへ離脱したジョージ高野と佐野直喜の2人に関しては、後に法的措置を取ったと同時に、星野勘太郎などのベテラン選手が新日本道場に泊まり込んで若手を監視していたという[1]

SWSは武藤敬司のほかにも、藤波辰巳の獲得も狙っていた[9]。当時新日本所属であった橋本真也は、当時週刊プロレスの取材に対して「プロレスにお金を出してくれる人のことを悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」と答えており、メガネスーパーがスポンサーとして存在したことに関しては肯定的意見を述べた[10]

第2次UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会『U-COSMOS』のメインスポンサーをメガネスーパーが務めるなど、双方共に友好な関係だったため選手の引き抜きはしなかった。その縁でSWSはUWF選手の出場を図っている。後に藤原喜明の貸し出しが発表されたが、これが元となりUWF内部に選手とフロント間の関係悪化を招いてしまい、UWF崩壊の遠因を作ることになる。

最終的にUWFが分裂に発展し、藤原・船木誠勝鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組[注釈 12]を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうちに1週間をSWSが拘束して興行に参戦する」という予定だったが、1991年4月1日に神戸大会で発生した鈴木みのる対アポロ菅原戦での不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係は事実上凍結してしまい、両団体は数回参戦のみで終わった。

ユニバーサル・プロレスリング(前出のUWFとは異なる「ルチャリブレ」を中心とした団体)との関係では、当時ユニバーサルのエースでもあった浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)が、1991年9月にメキシコで参戦していたUWA(LLI)からEMLL(現:CMLL)に移籍した事で、日本での主戦場が同年10月にEMLLと提携したSWSへ自動的に移る事となった[注釈 13]。これに対し、ユニバーサルの代表である新間寿恒の父の新間寿(元新日本プロレス営業本部長)は「SWSによる引き抜き」と捉えて激怒し、SWSの事務所に乗り込むことを明言するなど一時関係が悪化したが、浅井のSWS参戦発表直前に仲介役を介して天龍と新間寿の直接会談が行われ、新間寿が態度を軟化させた[注釈 14]ことで浅井のSWS参戦が実現した。浅井が初参戦した同年10月29日の福岡国際センターの興行には、新間寿恒が花束を持ってリングに登場して浅井を激励しており、この後に浅井は同年11月に行われたユニバーサルの後楽園ホールの興行に「特別参戦」としてけじめを付けた後、SWS(「レボリューション」)の所属としてフル参戦(1991年12月の東京ドーム大会からは「ウルティモ・ドラゴン」として参戦)するとともに、EMLLの極東担当としてSWSに参戦するEMLL選手のブッキングの役割を果たすこととなった[11]


注釈

  1. ^ 武藤はメガネスーパーが新規に旗揚げするSWSからの引き抜きには快く応じており、移籍するために新日本プロレス社長(当時)である坂口征二の元へ退団の挨拶をしたものの、坂口社長がその場で引き止めてメガネスーパーの田中八郎社長に電話で「武藤はそちら(SWS)へ行かせません」と断りの連絡をしており、移籍及び退団を認めなかったことを証言している。
  2. ^ なお、当時の藤波は腰痛で思うような試合が出来ず悩んでおり、SWSへ移籍しても期待通りの試合が出来ないという理由から、移籍は考えていなかったと発言している。
  3. ^ 当初の構想でSWSは武藤を引き抜き、団体のエースとして新人選手を育成する形を取り、時間を掛けて団体運営する予定だった。しかし武藤の引き抜きに失敗した後、来るとは思わなかった天龍を獲得出来たため、それに付随して多くのベテラン・中堅選手が移籍して来たこともあり、当初の計画を大幅に変更する形になったといわれる。
  4. ^ 当時担当した木村の話によると、この実況に関してプロレスファンからの評判は芳しくなかった上に、殆ど受け入れて貰えなかったという。
  5. ^ 試合後にリングを降りた北尾は、マイクを片手に憤りを隠せないリング上のテンタに対して「八百長野郎この野郎、八百長ばっかりやりやがって」と怒鳴り付けるように言い放ち、会場内は騒然となり激しいブーイングが起こった。続いて観客に向けて「お前ら、こんな物を観て面白いのか」と口にする。控室へ引き上げさせる選手の制止を振り切り「この八百長野郎!、八百長!!」と最後まで暴言は続いた。控室に戻った後も北尾は暴れて収拾が付かず、注意したカブキと取っ組み合いの乱闘となり、態度を叱責した社長夫人の田中由子にも暴言を吐き、更に椅子を投げ付けるなど大荒れとなった。
  6. ^ 北尾の騒動と処分に関して翌日、田中社長と役員が集まって緊急会議を開き、社長の判断で北尾に「罰金および謹慎処分」を決定した。しかし、この軽くて甘過ぎる処分に対して(田中社長は北尾を擁護する発言をしたため、疑問視する声が上がっている)反天龍派とマスコミ、プロレスファンから多数の非難の声が上がった。この処分に納得が出来ない反天龍派の一部選手から「こんな処分で(北尾が)許されるなら、自分からSWSを出て行きますよ!」と、強い抗議もあった。この非難を受けてSWSは改めて北尾を「解雇」する重い処分とする。田中社長は後日会見に応じ、北尾に対して軽く甘過ぎた処分と、擁護する発言を謝罪した。
  7. ^ ただしSWSでは、このWWFとの提携で発生する選手招聘による高額な提携料、ファイトマネーの支払いに関して反天龍派から問題視する声が出ており、提携には強い反対意見が出された。しかし天龍の判断でこの反対の声を押し切った形でWWFとの提携を結んだが、これが発端となり天龍派・反天龍派の間で見解の相違が生じ、確執の要因にも繋がった。
  8. ^ 最終的に全日本プロレスから離脱したのは選手、スタッフを含めて14人にのぼった。
  9. ^ 「鶴田軍」は改題をしており、鶴田が戦線を離脱した後は「聖鬼軍」として再び活動を始めた。
  10. ^ ジャイアント馬場の意向として「過去にウチ(全日本)でトラブルを起こした選手とは一切関わらないし、リングに上げない」という方針を取っていた。SWSに離脱した選手達はそれに該当する。
  11. ^ 後にジャパンプロレスへと発展している。
  12. ^ 後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称。
  13. ^ 浅井のEMLL移籍に前後して、SWSはザ・グレート・カブキを介してEMLLとの業務提携交渉を行っていた。EMLLとの業務提携成立により、中堅の折原昌夫と若手の中原敏之は1994年2月からSWSの崩壊直前までメキシコに遠征し、EMLLでは「イガ(折原)&コウガ(中原)」なるマスクレスラーのタッグとして活動している。
  14. ^ 新間はこの会談で天龍の態度を称賛したことで態度を軟化させたとされる。接点を持った天龍はWAR設立後にアントニオ猪木への「対戦要望書」を新間寿に託すこととなった。
  15. ^ プロレス団体興行としては、福井の旗揚げ大会から数えると1年9か月ほどで団体は崩壊している。
  16. ^ 同じレボリューション所属だった北尾光司も、1991年4月1日に神戸ワールド記念ホールで行われた対テンタとのシングルマッチ(北尾事件が発生した試合)に関して、この試合をマッチメイクしたカブキに相当な不満をぶちまけていたという。一説では反天龍派が北尾を煽動したという説もある。またこういった事情に関して、当時のプロレスマスコミは一切報じなかった。
  17. ^ 天龍によると、試合編成だけでなく田中社長に相談して了承を得られた事案も、反天龍派の選手が後から横槍を入れて来ており、後に変更されたことが何度もあったと発言している。
  18. ^ なぜ反天龍派の選手達が第1試合を敬遠したのか、真相は不明である。カブキは近年のインタビューで当時のSWSや選手について「SWSは自己中心的な選手達ばかりでどうしょうもなかったね。活躍したのは源ちゃん(天龍源一郎)やレボリューション(天龍派)の選手で、他は一部の若手選手だけ。あとは全然駄目だったよ」と嘆き気味に語っている。
  19. ^ 天龍によると「俺が覚えているのは、熊本でジョージ高野とのシングルマッチの試合前に、ドン荒川が俺に『今日の試合はどうすんの?真剣勝負でやるの?』と直接言って来たから『何言ってるの?お前』って思ったよ」という。また「ただでさえSWSは叩かれるのに「どうすんの?セメントやるの?」だからね。アイツ(ドン荒川)がチョロチョロし出して、おかしくなり始めたから」とも語っている。
  20. ^ 旗揚げ当初の説明では、天龍派率いる『レボリューション』所属選手の専用道場になる予定だった。
  21. ^ 当時WWFの交渉窓口は、元全日本プロレスで選手兼渉外担当だった佐藤昭雄がフロント入りをしており、反天龍派はWWFスタッフの佐藤と天龍、マッチメイカーのザ・グレートカブキとの関係も快く思っておらず、選手の中には「佐藤と天龍、カブキら3人で提携料を中抜きしているんだろう」という憶測の声も上がり、不信感を持った。佐藤と天龍、カブキとは全日本プロレス時代、先輩後輩の間柄でもある。
  22. ^ 2019年に出版されたケンドー・ナガサキ著の自伝によると、91年に阿修羅・原がSWSへの現役復帰をきっかけに「反天龍」への機運が高まった、と記している。原の復帰に関して、反天龍派の選手から反対する声が上がっていたという。
  23. ^ レボリューションの天龍源一郎、パライストラのジョージ高野との道場主タッグが組まれるなど、普段は見られない対戦も実現した。
  24. ^ 天龍、ジョージとの試合後には、各部屋の選手達が控え室に集結して万歳三唱を行い、派閥解消をマスコミにアピールした。この試合後に天龍は「部屋制度は一時、棚上げだね。とにかくみんなでSWSを良くして、みんなの持っている物を前面に出そうってことでまとまった」と、笑顔でコメントしている。
  25. ^ その他の例として、谷津嘉章がWWFのキング・ハクと結託して「ナチュラル・パワーズ」なるタッグを結成し、タッグ戦線を賑わしたほか、「打倒天龍」を目標とした「挑龍軍」が北原辰巳(レボリューション)、仲野信市(檄)、大矢健一(パライストラ)と道場を横断する形で結成されたり、佐野直喜はUWFスタイルに共鳴し、積極的に藤原組の興行にも参戦している。
  26. ^ 「ナチュラル・パワーズ」や「挑龍軍」も解散に追い込まれた。ただし、完全に両派で分断した訳ではなく、ケンドー・ナガサキは『檄』所属であったが「中立派」であり、天龍派・反天龍派・外国人との対戦カードのいずれにも連ねている。
  27. ^ この事件の1週間前にはザ・グレートカブキが単独で記者会見を行い、マッチメイカーを自ら降板すると共に「レボリューション」所属から退く旨を明かした。今後はフリーとして活動を継続する意向を語っており、これによってSWSは一時マッチメイカーが不在となった。
  28. ^ この時点で既にSWSが崩壊・分裂するのが決定的となり、反天龍派の選手達も意気消沈していたこともあって谷津・仲野に同調して追尾する選手はいなかった。
  29. ^ リング上には試合中にもかかわらず物が投げ込まれる中で行われるという非常に危険で異常な事態となり、仲野はその光景に涙を流しながら試合をするという屈辱を味わった。
  30. ^ 高野兄弟に代わってNOWのエースに抜擢された若手の維新力浩司ではあるが、彼にネームバリューが思うほど無かったことも団体が低迷する要因だった。
  31. ^ 特に天龍の義弟である武井正智が社長に就任した時期に前後して団体内の意見の相違が表面化し、1994年に石川敬士が離脱し「東京プロレス」を設立し、さらに1996年には冬木弘道ら「冬木軍」が離脱している。
  32. ^ 藤原喜明と船木誠勝・鈴木みのるらとの路線対立により、船木・鈴木ら大半の選手が藤原組を離脱し、その後パンクラスを設立した。藤原組の残留者はこの時点で藤原と石川雄規のみであった。
  33. ^ 他にもゴルフ事業なども存在していた。その他のスポーツ事業や、現在でも存続するのかは不明である。
  34. ^ 実況:伊津野亮 解説:菊池孝・牧元一・林家しん平
  35. ^ 実質的に復帰した形となる。
  36. ^ 概ね月曜深夜に放送されていた。
  37. ^ ラジオ向けの趣向で音声のみであった。
  38. ^ SWS末期の1992年4月以降は「レボリューション」を離れて、専属フリーの立場となった。
  39. ^ a b 入団時からしばらくは専属フリーとしての参戦だったが、1992年4月より「パライストラ」所属となった。
  40. ^ a b SWS活動停止後はNOWへ参加。
  41. ^ a b c d SWS活動停止後はWARへ参加。
  42. ^ 1990年12月に初来日し、1991年3月の再来日を機に留学を希望したため「道場・檄」の預かりとして同年8月まで滞在した。SWS活動停止後の1992年7月に、覆面レスラー「マスクド・インフェルノ」としてW★INGプロモーションに参戦している。

出典

  1. ^ a b c d e 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き興行戦争 pp22 - 27「SWSに走った天龍は、全日本から選手を引き抜いたのか?」(文:小佐野景浩
  2. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp085
  3. ^ a b c スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp64 - 66 「悲憤のSと一筋の光明」
  4. ^ a b 『SWSプロレス激闘史』pp023 - 047 「SWS激闘クロニクル1990-1992」
  5. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp006 - 011「恐龍怒闘 天龍源一郎が苦境に抗い続けたSWSの2年間」
  6. ^ a b c d e f g 『SWSプロレス激闘史』pp110 - 111「SWS激闘史年表」
  7. ^ スポーツアルバムN0.54『天龍源一郎引退記念特別号 下巻』(2015年、ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-62309-2) pp18 - 19
  8. ^ 『俺たちのプロレス VOL.10』「証言5 天龍源一郎 円満退社はなぜバッシングを浴びたのか? 全日本復帰の舞台裏とは?」(2018年、双葉社)P48
  9. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp084
  10. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp086 - 91 「検証!SWS×週プロ」
  11. ^ 竹内宏介『プロレス虚泡団体の真実』pp50 - 52
  12. ^ a b c d e f g スポーツアルバムN0.52『天龍源一郎引退記念特別号 上巻』pp68 - 70「Sと週プロ。 一体なにがあったのか」(文:安西伸一) ※pp70には『週刊プロレススペシャル3』のSWS関連インタビューの一部再括がある
  13. ^ 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年06月18日
  14. ^ 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)
  15. ^ a b c d e f 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.12 移籍・引き抜き興行戦争 pp52 - 57 「SWSの理想と現実」(文:小佐野景浩)
  16. ^ 『SWSの幻想と実像』p117
  17. ^ a b 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』p224
  18. ^ 『SWSプロレス激闘史』p61
  19. ^ 『SWSプロレス激闘史』p102
  20. ^ 『G SPIRITS VOL.46』pp34 - 43(高杉正彦による証言より) ISBN 9784777820047
  21. ^ 天龍がカブキがカーンが小鹿が谷津が、馬場さんありがとう…23回忌追善興行にレジェンド大集結 - スポーツ報知 2021年2月13日
  22. ^ 天龍さんが語る“谷津嘉章” 右足切断で義足になった谷津が30年来のわだかまりを経て話しかけてきた! - AERA dot. 2022年3月27日
  23. ^ 『SWSプロレス激闘史』 pp056 - 062「SWS日本人選手名鑑1990-1992」
  24. ^ 『SWSプロレス激闘史』p101
  25. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp63 - 71「SWSマットを席巻した外国人レスラー列伝」






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