1912年アメリカ合衆国大統領選挙 1912年アメリカ合衆国大統領選挙の概要

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1912年アメリカ合衆国大統領選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 15:17 UTC 版)

1912年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1912

1908年 ←
1912年11月5日
→ 1916年

投票率 58.8%[1] 6.6%
 
候補者 ウッドロウ・ウィルソン セオドア・ルーズベルト ウィリアム・タフト
政党 民主党 進歩党 共和党
出身地域 ニュージャージー州 ニューヨーク州 オハイオ州
副大統領候補者
トーマス・R・マーシャル

ハイラム・ジョンソン

ニコラス・バトラー
獲得選挙人 435 88 8
勝利地域数 40 6 2
得票数 6,296,284 4,122,721 3,486,242
得票率 41.8% 27.4% 23.2%

州別獲得選挙人分布図
  ウィルソン   ルーズベルト   タフト

選挙前大統領

ウィリアム・タフト
共和党

選出大統領

ウッドロウ・ウィルソン
民主党

背景

1908年の選挙で当時現職のセオドア・ルーズベルトは、大統領が2期を勤めた後は身を引くという長い間続いた伝統に従って再選を求めなかった。後継者としてウィリアム・タフトを指名し、タフトが1908年の選挙に勝利することになった。タフトの任期中に、タフトとルーズベルトの間に亀裂が拡大した。2人は共和党の中で2つの派閥の指導者となり、進歩派は裁判所と敵対し、女性と子供の雇用制限に賛成し、自然保護に賛成し、労働組合により近く、工業製品にかかる関税に反対した。保守派は実業家寄りで司法権の優越性を主張した。タフトは保守派の領袖であり、ルーズベルトは進歩派の指導者だった。1910年までに亀裂は深くなった。

候補者の指名

共和党の指名

共和党の指名候補者

全国党員集会への代議員の中には、初めて州毎の予備選で選ばれた者がいた。予備選は、ボスによる政党支配を崩そうと望んだ共和党の進歩派が提唱した。全部で14州が共和党の予備選を実施した。ラフォレットは最初の4州の予備選のうち2州(ノースダコタ州ウィスコンシン州)で勝利し、タフトがその他の2州(ニューヨーク州ネバダ州)を制した。しかし、ルーズベルトは4月9日イリノイ州での大勝にはじまり、残り10州のうち9州(開催順にイリノイ州、ペンシルベニア州ネブラスカ州オレゴン州メリーランド州カリフォルニア州オハイオ州ニュージャージー州、およびサウスダコタ州)の予備選で勝利し、マサチューセッツ州をタフトに譲っただけだった。

共和党の内紛を描いた風刺画

共和党全国大会は、6月18日から22日にかけてシカゴで開催された。ルーズベルトにとって不運なことに、タフトが早くから代議員の取り込みを始めており、予備選で選ばれた数は少数だった。タフトは南部州の党組織の大半から支持を得ていた。これらの州は1880年以降の各大統領選挙で堅く民主党に投票してきており、ルーズベルトは南部州が共和党の勝利に貢献しないことを理由に代議員の数が4分の1もいることに反対した(実際に元アメリカ連合国の州の代議員は209対40という大差でタフト支持だった)。共和党党員集会が招集されたときに、ルーズベルトは半数近い代議員の信任状に異議を唱えた。しかし、その時点では遅すぎた。代議員達はかってルーズベルトの一番の同調者だったエリフ・ルートを集会の議長に選任した。その後代議員達はアラバマ州アリゾナ州およびカリフォルニア州のタフト支持代議員団を席に着かせた。これらの州はそれぞれ、597対472、564対497、および542対529と接戦だった。ルーズベルトが予備選で勝っていたカリフォルニア州の票を失ったことで、進歩派の代議員は望みを無くした。彼等はそれに続く点呼投票の大半で「現在」(現職)に投票した。1872年の大統領選挙以降、共和党には大きな分裂は無かった。この時点で民主党は有権者の45%の支持を得ており、分裂は致命的なものだった。党員集会でのルーズベルトの唯一の望みはラフォレットと「タフト阻止」の同盟を作ることだったが、ラフォレットとの仲も疎遠であり同盟はできなかった。

ルーズベルトはタフトや保守派のせいで味わった個人的屈辱に我慢できなくなり、妥協の候補者の可能性も受け入れられず、ひどく打ちのめされた。6月22日の夜、ルーズベルトはその支持者達に党員集会から去ることを求めた。ルーズベルトは、タフト大統領が党内の進歩派から大統領指名を得るために代議員の不正な着席を認めたと主張した。かくして集会議長のルートの支持もあり、タフトの支持者がルーズベルトの支持者を上回った。集会は現職のタフトを大統領候補に、やはり現職のジェームズ・S・シャーマンを副大統領候補に指名した。シャーマンはリチャード・メンター・ジョンソン以来となる候補に再指名された副大統領となった。

副大統領候補指名投票
ジェームズ・S・シャーマン 596
ウィリアム・ボーラ 21
チャールズ・メリアム 20
ハーバート・ハドリー 14
アルバート・J・ビバリッジ 2

進歩党の指名

演説するセオドア・ルーズベルト(着色絵葉書)

共和党の進歩派はシカゴで再結集し、国民進歩党の結成を承認した。その夏遅くに正式に発足した時に、新しい進歩党はルーズベルトをその大統領候補に、カリフォルニア州出身のハイラム・ジョンソンを副大統領候補に指名した。ルーズベルトは記者の質問に答えて、「ブル・ムース」のように強く感じると言った。このことから「ブル・ムース党」と呼ばれるようになり、進歩党は連邦規制の増加と通常の人々の福祉保護を公約した。

この党を財政的に支えていたのは、出版者フランク・マンジーと銀行家J.P.モルガンとインターナショナル・ハーベスターの役員だったジョージ・パーキンスであり、パーキンスは事務総長として反トラスト綱領を潰したことでルーズベルトこそ真のトラスト破りだと考える改革派の支持の離反を招くこととなった。

民主党の指名

民主党の指名候補者

民主党全国大会は、6月25日から7月2日にかけてボルティモアで開催された。長い膠着の後、元大統領候補ブライアンが、ミズーリ州出身の下院議長チャンプ・クラークを破るためにウッドロウ・ウィルソンの支持を表明した。クラークは過半数の票を得ていたが、「3分の2規則」とブライアンやその他からの厳しい反対のために、その支持が薄れていった。ウィルソンは46回目の投票で指名を勝ち得た。副大統領候補にはトーマス・R・マーシャルが選ばれた。

社会党の指名

ユージン・V・デブスの得票率6%は、社会党としての最高記録となった。

アメリカ社会党は工業都市に地盤を置く地方政党の高度の党派連衡であり、通常はドイツ人やフィンランド人など少数民族社会に根を下ろしていた。以前の人民党の支持基盤である西部の田舎や鉱業地域、特にオクラホマ州にも支持者がいた。1912年までに、党は33の州と160の都市、特に中西部に1000人以上の選出された役職者がいると主張した。ユージン・V・デブス1900年1904年および1908年にも大統領選挙に出ており、特に地方の動きを奨励するために1912年も再度出馬した[2]

ミルウォーキービクター・バーガーが率いる保守派は、能率を重んじる改革を奨励し、汚職の終結を訴えたので、「ガス社会主義」という渾名が付いた。その対抗者は資本主義の転覆を欲する急進派であり、労働組合に浸透し、世界産業労働組合(the Wobblies)との協力を求めた。少数の例外を除いて党は地方の労働組合と弱いかあるいは存在しない結び付きしかなかった。移民が1つの問題であり、急進派は移民を資本主義に対する党争の飼い葉と見ており、一方保守派は移民が賃金率を下げ、あまりに多くの都市資源を吸収していると苦情を言った。これらの問題の多くが1910年に社会党の第1回全国評議会で議論され、1912年のインディアナポリスで開催された党員集会でも再度議論された。1912年の時、実行委員会にビル・ヘイウッドを送り込み、西部のウォブリーに激励を送り、さらに産業別労働組合に賛成すると考えられる決議によって緒戦を制した。保守派は産業サボタージュや無政府主義(すなわち世界産業労働組合)を支持し、アメリカの選挙への参加を拒む社会主義者を追放する党憲法修正案で反撃した。結局、監獄の協調的組織、健康保険局、上院と大統領拒否権の廃止、および民主党が提唱する進歩的改革の一覧表を要求する保守的綱領を採択した。デブスは集会に出席せず、いつの日か共通の目標が見出されるという期待で、バラバラな集団を繋ぎとめておくことがその使命と見ていた。党は非常に派閥抗争が激しく統一を必要とする国政選挙を生き残れず、1912年選挙の後で解体した[3]


  1. ^ Voter Turnout in Presidential Elections
  2. ^ Ira Kipnis, The American Socialist Movement, 1897-1912 1952.
  3. ^ Kipnis, The American Socialist Movement, 1897-1912 p. 423
  4. ^ 1912 Presidential General Election Data – National”. Uselectionatlas.org. 2013年5月4日閲覧。


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