黒色オベリスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 15:54 UTC 版)
概要
各面に5層ずつ、全体で20のレリーフが刻まれている。各層がそれぞれ異なる5人の征服された王たちを描いており、いずれもアッシリア王の前に平伏し貢物を捧げている。上部から下方へ順番に(1)ギルザヌ(北西イランにある)のスア(Sua)、(2)ビート・オムリのヤウア(Yaua、オムリ家のイエフ)、(3)ムスリの名前不明の君主、(4)スヒ(Suhi、ユーフラテス川中流、シリアとイラクに跨る地域)のマルドゥク・アピル・ウツル、(5)パティン(Patin、トルコのアンタキヤ地方)のクァルパルンダ(Qalparunda)である。それぞれの場面がオベリスクを巡る4つのパネルで構成され、上側に楔形文字で説明が刻まれている。
レリーフの上部と下部にはシャルマネセル3世の年代記を記した長文の楔形文字文書がある。これにはシャルマネセル3世とその最高司令官が治世31年まで毎年を行っていた遠征のリストが掲載されている。いくつかの特徴から、このオベリスクが最高司令官ダヤン・アッシュル(Dayyan-Assur)によって建てられたものである可能性があり得る。
第2層
上から2番目の層は、現存する最古の『旧約聖書』の登場人物の図像を含んでいると考えられている。この層に描かれている人物の名前はmIa-ú-a mar mHu-um-ri-iであると見られる。ヘンリー・ローリンソンによる1850年の代表作『On the Inscriptions of Assyria and Babylonia』における原文訳は次のように説明されている。「第2層の貢物はフビリ(Hubiri)の子ヤフア(Yahua)によって運ばれたと述べられている。この君主はオベリスクに刻まれた年代記で言及されておらず、それ故にどこの国の人物だったのかについて私はわからない[5][6]。」1年以上後、エドワード・ヒンクス師によって聖書との繋がりが指摘された。彼は1851年8月21日の日記に次のように書いている。「このオベリスクに描かれた虜囚たちの1人をイスラエルの王イエフと特定する考え、この点に自分自身を満足させ、これを発表する手紙をアテナエウムに書いた」[7]。ヒンクスの手紙は同じ日に、イギリスの文芸雑誌アテナエウムで「Nimrud Obelisk」というタイトルで発表された[8]。ヒンクスによるこの特定は現代では聖書考古学者たちの一般的な見解となっている。
「ヤフア(Yahua)」とイエフの同定はジョージ・スミスのような同時代の学者や[9]、同様に最近ではピーター・カイル・マッカーター(Peter Kyle McCarter)やエドウィン・ティーレによって疑問視されている[1][2]。彼らはイエフがオムリ家の人物ではないことや、音訳および編年の問題に基づきこの同定に疑問を投げかけている。しかしながら、この名前は「オムリの子(Bit-Khumri、オムリ家)ヤウ(Yaw)」と読み、聖書に登場するイスラエル王イエフと見なすというヒンクスの見解に従うことが一般的な見解となっている。
このオベリスクは前841年にイエフが貢物を運んできたか、あるいは送ってきた様子を描いている[10]。イエフはイスラエルとフェニキアおよびユダの同盟を破棄してアッシリアに臣従した。この場面の上のキャプションはアッシリア楔形文字で書かれており、次のように訳すことができる[4]。
「余はオムリ(アッカド語: 𒅀𒌑𒀀 𒈥 𒄷𒌝𒊑𒄿)の子イアウア(Iaua、イエフ)の貢物を受け取った。銀、金、黄金の容器、尖底の黄金の壺、黄金の酒器(tumblers)、黄金の桶(buckets)、錫、王勺(と)槍を。」[4]
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黒色オベリスクの四面の模写。浮彫の第2層目はイエフ王のユダヤ人使節団を描いている
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アッシリア王シャルマネセル3世がギルザヌ王スアから貢物を受け取っている(黒色オベリスク)
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イエフ王の贈り物を持ったユダヤ人使節団の一部(黒色オベリスク、前841年-前840年)[11]。
レプリカ
黒色オベリスクのレプリカがシカゴ大学東洋研究所、ケンブリッジにあるハーバード大学のセム博物館、ワシントン・D・Cにあるアメリカ・カトリック大学セム学科(Semitic Department)のICORライブラリ、オレゴン州セーラムにあるコーバン大学のプレウィット=アレン考古学博物館、ミシガン州ベリアン・スプリングスにあるアンドリュース大学のジークフリード・H・ホーン博物館、ペンシルベニア州ピッツバーグにあるケルソー中東考古学博物館(Kelso Museum of Near Eastern Archaeology)、ニュージーランドのクライストチャーチにあるカンタベリー博物館、デンマークにあるオーフス大学の古代美術博物館、オランダのオーファーアイセル州カンペンにあるTheological University of the Reformed Churches、東京の聖書考古学資料館にある。
- ^ a b McCarter 1974, pp. 5–7.
- ^ a b Thiele 1976, pp. 19–23.
- ^ a b Kuan 2016, pp. 64–66.
- ^ a b c d Cohen & Kangas 2010, p. 127.
- ^ Rawlinson 1850.
- ^ Mitchell 2004, p. 14.
- ^ Khan & Lipton 2011, p. 159.
- ^ "Nimrud Obelisk, Athenaeum, 1251, 1384-85
- ^ Smith 1875, p. 190「前842年の年代記(抜粋VIIIおよびX)には「オムリの子イエフ」と呼ばれる別のヘブライ王と思われる人物がいる。彼は一般にイスラエル王「ニムシ(Nimshi)の子イエフ」と同定されている。この「オムリの子イエフ」が統治していた国はこの碑文内では語られていない。そして、イエフはオムリの家族を皆殺しにした人物であり、自身をオムリの子と名乗ることことは想定し難い。このオベリスクの碑文で言及されている君主を特定するための他の説を進めるわけではないが、私は聖書のイエフとこの碑文のイエフが同一人物であるということは証明されていないこと、そしてこれらの言及は我らの聖書の全ての年代を改めるのに十分なものではないと強く主張する。」
- ^ Millard 1997, p. 121.
- ^ a b Delitzsch et al. 1906, p. 78.
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