馬場信春
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人物
武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。
『甲陽軍鑑』には信春に関する逸話が数多く記され、教来石氏時代に足軽大将の山本勘助から城取(築城術)を教授されたという。深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城など各地(特に東海道方面に多い)の武田方の支城を築城したとされ、後代には築城の名手とも評されている。
江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』では「智勇常に諸将に冠たり」と記し、一国の太守になれる器量人であると評されている。
山県昌景と共に武田家の重鎮として語られることが多いが、竜朱印状の奏者であり軍政の中枢にいたことが確認されている山県とは対照的に、信春の発行した竜朱印状は確認されておらず、実際の信春の武田の軍政におけるその地位は不明である。
また他の四天王が20代で100騎持ち、40代で300騎持ちなどに出世しているが、信春は44歳にしてようやく120騎持ちと出世は遅れている。
逸話
永禄11年(1568年)の駿河侵攻では先鋒を務めるが、その際に今川氏が収集した財宝・名物が焼失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示したことを知ると、すぐさま現場に駆けつけ「貪欲な武将として後世の物笑いになる」として、周囲の面々が止めるのも聞かずに財宝を再び火中に投げ込んだ。信玄はこれを知って、「さすが7歳年上だけある」と後世に名を惜しんだ信春の器量に恥じ入ったと言われている[4]。
子孫
『信長公記』によれば、嫡子の馬場民部少輔は、天正10年(1582年)2月の甲州征伐において信濃深志城において織田方に城を明け渡したという。民部少輔のその後の動向は不明であるが、戦死もしくは刑死したと考えられている。その後、馬場氏の家督は信春の弟の馬場信頼が継いだ。信頼の子(信春の甥)馬場信久は、歌舞伎の「大杯觴酒戦強者(おおさかづきしゅせんのつわもの)」に登場する。
子孫は、江戸幕臣の他、和泉国淡輪(大阪府岬町)、越後国松岡(新潟県新発田市)、下野国上三川(栃木県上三川町)の富裕郷士となった。主家武田氏との縁組も何代かにわたり行われたため、武田氏の一族として記される場合も多い。上三川町の馬場氏は江戸期には累代名主職を務めており、一族の家紋は武田菱である。武蔵御嶽神社(東京都青梅市御岳山)の御師(神職)になった馬場氏もあり、都指定有形文化財である慶応二年(1866年)建造の御師住宅(馬場家御師住宅)と共に家系は現在も続いている。また、三河国二川(愛知県豊橋市)の馬場彦十郎の家系は、文化4年(1807年)から明治まで約60年間二川宿の本陣職を務めた。その子孫は昭和60年(1985年)まで本陣を住居としていたが、住みにくさから土地・建物を豊橋市に寄付した。現在の豊橋市二川宿本陣資料館である。
歴史学者の小和田哲男は母方の先祖が馬場信春であると聞かされて育った、と著書に記している。
妙恩寺の11代目住職日豪上人は末子。しかし、徳川家康が武田軍と対陣の際、家康軍が妙恩寺を本陣に使用することを快諾している。また、三方ヶ原の戦いで敗れた家康が妙恩寺に身を隠し、難を逃れたという伝説も残されている。
固有名詞の分類
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