飾磨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/24 09:54 UTC 版)
地理
- 飾磨区は市川下流西岸と夢前川下流東岸に挟まれた一帯で、周縁の一部を除いては平坦である。姫路市街を貫いてきた船場川が、飾磨西部を南流する(イオンモール姫路リバーシティーの名は船場川に因む)。また飾磨区中東部には野田川(上流部は外堀川/三左衛門堀)が、やはり南流して姫路港へ注ぐ。
- 夢前川を挟んで西側で広畑区と向き合うが、飾磨区北縁や飾磨区東縁では非区部との境目が曖昧である。
- 飾磨区中心部を国道250号(浜国道)が東西に走り、また北方の姫路市中心部などから駅南大路や兵庫県道62号姫路港線(産業道路)など数本の道路が南下してくるが、飾磨中心部は昔ながらの狭い道が錯綜する街並となっている。南方は播磨灘に面するが、海岸線のほぼ全てが工場地帯であり、海に面しているとの感じはあまりしない。
- 飾磨区北縁部には姫路バイパスの姫路南ランプ及び市川ランプがある。
地名の由来
この地名があらわれたのはかなり古く、こんにちの姫路駐屯地内に「白国字飾磨田」という地名があった。『播磨国風土記』には第5代・孝昭天皇が即位前にそこに館を建てて住んでいたときに「鹿も啼くのか」と言ったと伝わり、この「鹿も」に由来した地名といい、「飾磨郡」の名が見える。
現在「飾磨」の地名は山陽電鉄飾磨駅周辺、あるいはせいぜい飾磨区に用いられる程度だが、古来より続く飾磨郡は姫路一帯のかなり広い地域を占めていた。廃藩置県で大小の県が統廃合を繰り返していた頃には、姫路を中心とした「飾磨県」が、1871年(明治4年)11月から1876年(明治9年)8月に兵庫県へ統合されるまで存在していた。飾磨県が統合された後も、1889年(明治22年)の町村制施行により飾磨町が発足し、これは周辺の町村との合併を繰り返し1940年(昭和15年)からは飾磨市となり、姫路市に合併するまで続いた。現在飾磨区を名乗る地名は、姫路市との合併時に飾磨市であった区域の名残である[1]。
飾磨周辺に、鹿に因む地名は他にもある。飾磨沖の家島諸島に属する男鹿島は、飾磨付近に住んでいた雄雌の鹿の内、牡鹿が泳いで来たとの伝承がある。また、本土の飾磨区側の妻鹿も残された牝鹿によるとされる。
ちなみに、その昔は「鹿間」と書いていたようである。夫婦の鹿が住んでいて、雌の鹿が流れてたどり着いたのが今の「妻鹿(メガ)」で、雄の鹿がな流れ着いたのが今の「男鹿(タンガ)」で、その雌鹿と雄鹿の間にある所から「鹿間(シカマ)」となったと言う説がある。
歴史
- 英賀地区には四国からやって来た三木一族が、英賀城を中心に勢力を張っていた。治めていた範囲は加古川西岸から室津までで、一時は「英賀千軒」と称されるほどの繁栄を見たとも言われるが、1580年(天正8年)4月に豊臣秀吉の軍勢に攻め落とされた。現在も英賀宮町2丁目に城址が残る。
- 土砂の累積により船の出入りが困難となったため、1846年(弘化3年)に藤田祐右衛門惟昌が私費を投じ、港の中核となる湛保地区を築いた。この工事は、排水のため水車四千台を使用したという難工事であった。また、播磨灘から吹いてくる烈風を防ぐため、港の四囲に数千本の松苗を植えつける作業も同時に行った(現在も飾磨港内に祐右衛門の記念碑が存在する)。
- 明治時代に入ると、飾磨の臨海部では多くの近代工場が建設された。特に敷島紡績(現・シキボウ。1913年操業開始)、福島紡績などの紡績業、及び山陽特殊製鋼(1929年操業開始)、合同製鐵(1934年操業開始)などの製鋼業が立地し、加えてマッチの生産も盛んとなり、飾磨は工業の街として栄えることとなった。また、生野鉱山より産出された銀の積み出し港として、フランス人技術者らにより生野街道とともに整備される。
- 飾磨は1940年(昭和15年)に市制施行して飾磨市となったが、終戦間もない1946年(昭和21年)3月、進駐軍の方針もあって姫路市と合併することとなった(ラモート合併)。
飾磨と同じ種類の言葉
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