阪東妻三郎 阪東妻三郎の概要

阪東妻三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)

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ばんどう つまさぶろう
阪東 妻三郎
本名 田村 傳吉
別名義 沢村紀千助
阪東藤助
阪東要二郎
岡山俊太郎
生年月日 (1901-12-14) 1901年12月14日
没年月日 (1953-07-07) 1953年7月7日(51歳没)
出生地 日本東京府 東京市神田区(現・東京都千代田区
死没地 日本京都府京都市
職業 俳優
ジャンル 映画
活動期間 1918年 - 1953年
著名な家族 長男:田村高廣
次男:田村俊磨
三男:田村正和
四男:田村亮
婚外子:水上保広
孫:田村幸士
主な作品
雄呂血
無法松の一生
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来歴

1901年(明治34年)12月14日土曜日)、東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。

歌舞伎界へ

1916年(大正5年)、旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め、16歳で成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払いされた。

落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される。

仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった。

1918年(大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る。

下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる。

映画界へ

1919年(大正8年)、国際活映沢村四郎五郎一派のエキストラに出演。日給1円20銭だった。伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を活動写真界に見出し、3月ごろから「阪東藤助」を名乗り、沢村四郎五郎、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた。

1920年(大正9年)、6月に松竹キネマ蒲田撮影所が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした森要がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りし、まったく無名のまま脇役を過ごす。国活では「阪東要二郎」を名乗り、7月には『島の塚』(枝正義郎監督)に仕出し役で出演している[1]環歌子は当時の阪妻について、「大勢のエキストラの中でも大変目立ってすぐわかりました。痩せて非常に背が高く、首一つ出ている感じで色が白いのを通り越して青い様な感じでした」と語っている。

再び歌舞伎界へ

1921年(大正10年)、活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、中村吉松を募って撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と武田勝頼を演じた。

前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった。

1922年(大正11年)、22歳の春、仕打ちの失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた。

マキノ・プロへ

1923年(大正12年)2月、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻に眼を止める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、中村吉松と京都入り、マキノ・プロダクションに入社[2]

マキノ・プロに月給六十円の大部屋俳優として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった。

1924年(大正13年)、正月映画『火の車お萬』で環歌子との共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり、『怪傑鷹』(二川文太郎監督)で高木新平の相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる[3]

続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、尾上松之助版を圧倒する評判を得た[4]

ちょうどたまたま同じ下宿に、浅草ペラゴロ出身の、これも浪人の身の脚本家寿々喜多呂九平(『怪傑鷹』の作者)がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる。

『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。以後、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』、『墓石が鼾する頃』と、この寿々喜多呂九平と組んだ、阪妻の人気を不動とした作品群が続き、とりわけて虚無的で反逆的な一連の傑作を、浅草オペラ出身のアナキスト、漠与太平門下生の二川文太郎が監督。なかでも大正14年の『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』は大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる[5]

阪妻プロの創設

1925年(大正14年)9月、全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立。今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。

阪妻はマキノ時代以来の盟友、寿々喜多呂九平二川文太郎をマキノからの出向で得て、『雄呂血』の製作を開始するが、京都ではマキノ側の妨害が激しく、やむなく東京の吾嬬撮影所で『異人娘と武士』を撮影。

『異人娘と武士』が終わるとすぐに引き返し、奈良で『雄呂血』を撮影。撮影所はなく、旅館に泊まって資金ができるとロケに出るという状況だった。環歌子はこのときの阪妻の様子について、「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」と語っている[6]

11月、ついに『雄呂血』が完成し、封切り公開。歌舞伎調の立ち回りを完全に破壊した型破りの殺陣は大評判となり、また体制に反逆する主人公の虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇のバンツマ」として一世を風靡する。

12月、阪妻人気に注目した松竹は独立早々の阪妻と配給提携を結び、これにより阪妻人気は全国的なものとなる。

阪妻プロでは「三羽がらす」、「四天王」、「十剣士」などといった「からみ(斬られ役)」を揃えていた。河津清三郎は最も多く用いられたからみの一人だった。

1926年(大正15年)4月、阪妻プロの太秦撮影所落成。9月、アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。

この年『魔保露詩』、「東山三十六峰静かに眠るとき・・・」の活弁で一世を風靡した『尊王』、アナキスト悪麗之助監督・脚本の『無明地獄』と、代表作とされる傑作を連作。剣戟スタアの地位を不動のものとする。

阪妻映画では、講談調の単なる英雄、豪傑と違い、阪妻扮する武士や浪人、やくざに至るまでが人間的な明暗を持ち、不正や不当な権力と闘う不屈な精神が描かれるため、阪妻の映画は幅広い愛好者の支持を受けた[7]

1927年(昭和2年)5月、ユニバーサル社との提携を解除。思い通りに動かない阪妻を警戒した松竹は、六十万円を出資して阪妻プロを株式会社化。山崎修一を目付役に送り込む。以後山崎と阪妻は意見対立・喧嘩の毎日だった。

1928年(昭和3年)新春早々、朝日新聞が阪妻のために「賞金五千円」をかけて募集した映画小説一等当選作『霊の審判』の映画化を発表。この作品はすでに朝日新聞紙上で伊藤好市原作で連載中であり、「阪妻の初の本格現代劇主演」とあってセンセーショナルな話題を映画界に投じた。

しかし興行主義の松竹と芸術志向の阪妻の対立が次第に表面化。初の現代劇ともあって阪妻も調子が上がらず、また異色の原作映画化といったこともあり、三月封切りの予定を過ぎても『霊の審判』は完成せず、4月、ついに阪妻プロ支配人山崎修一は製作の正式中止を発表。

6月28日、阪妻プロは改革縮小を断行。阪妻は取締役を辞任、『霊の審判』主要スタッフの枝正義郎細山喜代松江川宇礼雄近藤伊与吉らが整理退社となり、『霊の審判』製作再開は不可能となる。

阪妻の松竹に対する発言力が強かったのは大正15年から昭和2年までで、この昭和3年以降は強大な資本力によって、松竹の阪妻プロ干渉が強力なものとなっていった。松竹での阪妻プロの位置づけは「松竹時代劇救世主」から、「松竹時代劇ブロック構成の一環」に組み込まれていった。昭和2年、松竹は阪妻に替えて林長二郎を二万円(当時)の宣伝費をかけて売り出し、長二郎の人気は阪妻に肉薄していく。

1929年(昭和4年)、松竹は阪妻、林長二郎月形龍之介市川右太衛門、阪東寿之助と時代劇ブロックを充実させ、芸術志向の阪妻プロとの時代劇製作方針の相克は溝をますます深める。

1930年(昭和5年)6月11日、阪妻懸案の大佛次郎との提携作『からす組』完成後に、阪妻は朝日新聞紙上に松竹脱退絶縁声明書を発表。京都の阪妻プロ撮影所を解散する[8]

阪妻プロの再結成

千葉谷津海岸に移設した阪妻プロの撮影所。太秦とは逆にスタジオの文字が左書きになった

1931年(昭和6年)2月、松竹と絶縁し、閉鎖した京都太秦の撮影所を谷津遊園(現千葉県習志野市・現在はない)に移設し、野心的に仕事をこなす。新興キネマと配給提携し、吉川英治長谷川伸その他の大衆文芸を題材とした本格的ドラマ作りに精進。共演女優に森静子、環光子、鈴木澄子桜木梅子が次々出演。ヒット作を飛ばす。

同年、アメリカのパラマウント社のため阪妻プロとは別に「大日本自由映画プロダクション」を設立し、『落陽餓ゆ』(東隆史監督)を制作。「大日本自由映画」はこの一本のみで解散する。

1935年(昭和10年)5月、阪妻プロが新興キネマと合流。昭和6、7年ごろから日本映画はトーキー時代に移行。映画界の情勢は一変。阪妻人気は凋落。

1936年(昭和11年)12月、『怒涛一番乗』を最後に、11年続いた阪妻プロは解散する。

日活〜大映へ

1937年(昭和12年)5月、谷津の撮影所を整理して、裸一貫で日活に移る。独立時代と違って、商業主義的な大作に次々と出演し、芸歴は一段と大きくなったが、独立時代に深刻な人間探求を続けた成果が実り、名優としての評価が加わった。セリフをすべて暗記するまで仕事にかからなくなったのはこのころからである。役柄では『恋山彦』の伊奈小源太、『柳生月影抄』の柳生十兵衛、『闇の影法師』の縣佐馬之助、『忠臣蔵』の大石内蔵助、『富士に立つ影』の佐藤菊太郎と、オーソドックスな武士に扮して堂々の貫禄を示した。『将軍と参謀と兵』では師団長中将に扮して支那大陸を背景に現代武人の典型を見せ名実ともに斯界の王座を占めた[9]

1942年(昭和17年)、『将軍と参謀と兵』(田口哲監督)で、初の現代劇主演。

この年、日活が再編成され大映となり、阪妻もこれに合流。創立記念作『維新の曲』(牛原虚彦監督)は、阪妻、千恵蔵右太衛門アラカンという「四大スタア」の顔合わせもあり大ヒットとなる。

1943年(昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、嵐寛寿郎によると「あの人は豪胆やさかい呼び出しに応じまへん」とのことで、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまった[10]

戦時中はほかに『血煙高田の馬場』、『魔像』、『江戸最後の日』、『無法松の一生』などの傑作に主演。

1944年(昭和19年)、8カ月にわたる上海ロケの末、日華合作映画『狼火は上海に揚る』(稲垣浩監督)を完成。封切り時は日支双方とも空襲のさなかで映画鑑賞のゆとりなどはなかったという。

1945年(昭和20年)、日活撮影所は連日京都師団の査閲訓練を受け、映画撮影どころでなくなる。阪妻は稲垣に「上陸されたらおしまいでしょう」と戦況を語っている。8月15日、日本敗戦。阪妻は撮影所企画室で、稲垣浩と二人で黙って手を握り合ったという。

戦後、占領軍の「チャンバラ禁止令」のために剣戟ができず、慣れない洋服を着て現代劇に出演。

1947年(昭和22年)、『素浪人罷り通る』(伊藤大輔監督)で時代劇復帰。

松竹へ

1949年(昭和24年)、現代劇好調を受け、大映社長永田雅一が「古ぼけた時代劇のスタアはもうウチはいらん」と放言。これに怒って「四大スタア」全員大映を脱退。阪妻は松竹京都に移籍。時代劇の地図が塗り替えられることとなる[11]

1950年(昭和25年)、松竹下加茂撮影所が可燃性フィルムの自然爆発を起こし、現像所や事務所、ステージを全焼。巻き添えを喰い、ほぼ完成状態だった、山田五十鈴共演の『無頼漢』(衣笠貞之助監督)のフィルムが焼失の憂き目に遭う[12]

時代劇では『大江戸五人男』、天才棋士坂田三吉を演じた『王将』、コミカルな現代劇『破れ太鼓』などの作品に主演し、大河内伝次郎とともに正真正銘の「スタア」であり続けた。

1953年(昭和28年)7月2日、『あばれ獅子』撮影中に持病の高血圧から体調を崩し、同年7月7日脳内出血により死去。51歳没。

人物

大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ[13]。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられる。

身長172cm。5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。二男の田村俊磨は実業家で、高廣・正和のマネージャーも務めた。婚外子に俳優の水上保広がいる。田村幸士は孫にあたる。

無学のコンプレックスを克服するため、勉励努力を重ねていた。アナキストの今東光を阪妻プロの顧問に迎えたり、哲学映画『霊の審判』を自ら監督しようとして結局製作中止となったり、「大日本自由映画プロダクション」を設立して『洛陽餓ゆ』一本のみで解散するなど、世間からは大風呂敷としか見えない試行錯誤を執拗に繰り返した。これは阪妻が常に不安であり、俳優という仕事に小心、謙虚であったことを物語っている。映画が挙げてトーキー化の波に洗われたとき、発声に自信のなかった阪妻は最後まで無声映画の砦を守ろうとした。だが、悪声をかえって武器とし、独特のエロキューションを工夫、創造してみせたのである[14]

家系

 
 
 
 
田村長五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
(内妻)
 
阪東妻三郎
 
静子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水上保広
 
田村高廣
 
田村俊磨
 
田村正和
 
田村亮
 
宇佐美恵子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田村幸士
 

  1. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  2. ^ ここまで注釈以外、すべて『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)から
  3. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  4. ^ 『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)
  5. ^ ここまで注釈以外すべて『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  6. ^ 『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)
  7. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社刊)
  8. ^ ここまで『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)より
  9. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社刊)
  10. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  11. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  12. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  13. ^ 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.38
  14. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  15. ^ 『剣戟王阪妻の素顔 - 家ではこんなお父さんでした』 田村高廣ワイズ出版、2001年
  16. ^ ここまで、『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  17. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  18. ^ 『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)
  19. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  20. ^ ここまで『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)より
  21. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  22. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  23. ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1976年版(映画産業団体連合会協賛)』1975年12月1日発行、時事映画通信社、 15頁。
  24. ^ a b c d e 「映画業界動向」『映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛)』1976年12月1日発行、時事映画通信社、 55頁。
  25. ^ a b c d e f g h i j k l 「トップインタビュー 全興連副会長 映団連理事 大旺映画社長 山田敏郎 『異色のカツドウ屋43年間の浪人人生』 ききて 財界』編集長 針木康雄」『月刊ビデオ&ミュージック』1976年2月号、東京映音、 20頁。
  26. ^ 「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1986年1月下旬号、キネマ旬報、 170-171頁。
  27. ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛)』1976年12月1日発行、時事映画通信社、 8頁。
  28. ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  29. ^ 『日本人の知恵』(中央公論社)
  30. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  31. ^ ここまで、『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  32. ^ 週刊現代 2021年6月12日号 p.54-55
  33. ^ テレビガイド 1977年5月6日号 18-19ページ ぴいぷる 田村正和インタビュー 阪妻さんは大尊敬しています


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