鍋島吉茂 鍋島吉茂の概要

鍋島吉茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 22:39 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
鍋島吉茂
鍋島吉茂(高伝寺蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文4年4月19日1664年5月14日
死没 享保15年3月18日1730年5月4日
改名 矩茂(初名)、神代直利、鍋島吉茂
戒名 法性院殿健巌良勇大居士
墓所 佐賀県佐賀市本庄町本庄の高伝寺
官位 従四位下丹後守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
肥前佐賀藩
氏族 鍋島氏、神代氏、鍋島氏
父母 父:鍋島光茂、母:甘姫(松平光通の養女)
養父:神代直長鍋島綱茂
兄弟 綱茂吉茂多久茂文宗茂、千、伊東祐実側室、水野忠直正室、鍋島茂正室、鍋島直恒正室ら41人
神代直長の娘
養子:宗茂上杉吉憲婚約者
テンプレートを表示

生涯

寛文4年(1664年)、2代藩主・鍋島光茂の次男として誕生した。初名は矩茂(のりしげ)。

初め大叔父・神代直長の婿養子となって神代家を相続し、直利に改名した。神代氏は元々筑後国にて大宮司を務めたという名族で、神代勝利の嫡男・勝良(長良)鍋島直茂の弟・小河信俊(おがわ のぶとし)の子・家良(いえよし)を養子として迎えて以来鍋島一門と化しており、佐賀藩の家老を務めていた。家良から常親、常利、常宣と続いた後は鍋島本家から養子を迎えることが続き、常利が勝茂の娘を妻としていた縁により同じく勝茂の子である直長が、そして直利が神代家の当主となった。

しかし、3代藩主となっていた兄・綱茂には男子に恵まれず、跡取りがいなかったため、宝永2年(1705年)にその養子に迎えられた。吉茂も同様に子がなかったため、神代家は弟の神代直堅(鍋島宗茂)が相続した。

宝永4年(1707年)、綱茂の死去に伴い家督を相続した。また、5代将軍徳川綱吉偏諱と鍋島家の通字により吉茂に改名した。財政難の中、観頤荘を破却し財政改革に取り組んだ。また、十五組の軍組織を整備、年譜類の編纂事業を行う。享保11年(1726年)の火災で佐賀城が焼失した。

享保15年(1730年)、死去、享年65。藩主在任中も子ができず、死の前に弟の神代直堅を呼び戻して世子としており、吉茂の死後は直堅改め鍋島宗茂が家督を継いだ。

系譜






「鍋島吉茂」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鍋島吉茂」の関連用語

鍋島吉茂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鍋島吉茂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鍋島吉茂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS