赤穂事件
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史跡等
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浅野内匠頭終焉の地
- 浅野内匠頭終焉の地邸
- 東京都港区新橋四丁目
- 追悼碑は田村家上屋敷跡にあったが、現在は東京都により撤去され[290]、田村邸から50mほど離れた場所の秋田氏三春藩邸前(新橋五丁目)に移された[291][292]。理由不明ながら碑が後ろ向きに建てられていたが[293]、現在は再設置され、修正されている(画像参照)。
- 大石良雄外十六人忠烈の跡
- 東京都港区高輪一丁目
- 赤穂浪士の切腹後、大石内蔵助らを預かった細川綱利は切腹跡についた血を清掃することを禁じた[294][295]。さらに綱利は「彼らは細川家の守り神である」として17士の遺髪を分けて頂き供養塔や墓を建て[296]、切腹場所を屋敷の名所として残すように命じている。しかし、綱利の血筋が絶えたこと、延享2年(1745年)に火災でこの屋敷が焼失したこと[297]、 延享4年(1747年)に江戸城中で細川宗孝が遺恨[注釈 46]により斬殺され加害者の遺臣が健在だったこと、この事件の際に浅野氏と不仲の伊達家が御家断絶の危機を救う恩人になったこと、など様々な事情が重なり綱利の遺言は守られなかった[注釈 47] 。明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、現在は「大石良雄等自刃ノ跡」が道路脇にあり[注釈 48]、公営住宅の門(細川邸不浄門)[298]に「大石良雄外十六人忠烈の跡」顕彰碑が設置されている[299]。
- 水野監物邸跡
- 東京都港区芝五丁目
- ただし、水野氏は江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に浪士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所である[300]。
- 大石主税良金ら十士切腹の地
- 東京都港区三田二丁目
- 松山藩の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていなかったが、昭和14年(1939年)に徳富蘇峰が揮毫の「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑[注釈 49]が建立された。ただし、蘇峰の著作そのものには赤穂浪士への毀損が書かれることが多い[301]。
- イタリア大使館敷地内のため見学不可。「赤穂民報」によると数年に一度は供養の行事を行っているという[302]。
- 長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡
- 東京都港区六本木六丁目
- 毛利家の意向により、赤穂浪士の供養塔や顕彰碑の類が藩邸跡に一切存在しない(毛利師就は江戸城の松の廊下にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、重傷を負ったが一命をとりとめた)[303]。庭園名に「毛利」を冠した森ビルも踏襲している[304]。
- その他、関連の地
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