結縄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/13 15:51 UTC 版)
オセアニア
ハワイの徴税人が結縄を用いていた事実は、1820年代のイギリス人宣教師らの日誌に記されている。彼らの記すところでは、「徴税人たちは、読み書きができないが、島中の住民から集められたあらゆる種類の品々についての非常に詳細な記録をつけている。これは主として1人の人間によって行われ、そして記録するものは、400~500尋(約750~950 m)の縄1本にすぎない」[40]。東洋学者のテリアン・ド・ラクペリは1885年にハワイの結縄についてより詳細な記述を残しており、異なる形状・色・大きさの縄や結び目・房によって記録が行われると解説している[41]。
マルキーズ諸島では家系図・民謡・伝説を記録するのに結縄を用いていた。カール・フォン・デン・シュタイネンの20世紀末の記録では、マルキーズ諸島の家系図は159世代前まで遡り、島への到達や宇宙創造の伝説を記録している[42]。また、死者が出たときには僧侶がココナッツの繊維から作られた紐に結び目を作り、死亡者の統計を作っていた[43]。人類学者ラルフ・リントンは1920年から1921年にかけての調査において、「結縄の使用は、ポリネシアの他のいかなる地域よりも、マルキーズ諸島において最も高度に発達しているように思われる」と綴っている[44]。結縄文化はソシエテ諸島を経由してニュージーランドまで伝わり、現地のマオリの間ではタウポナポナ(tau-ponapona)と呼ばれていた。イースター島にも結縄による家系図が残っている[43]。
ポリネシア以外でも、メラネシアのソロモン諸島やナウル、さらにフィリピンでも日付を数えるための結縄の使用が報告されている[45]。18世紀に西洋を訪れた太平洋諸島人として知られるパラオ(ミクロネシア)のリー・ボー王子は、結縄を用いて航海日誌をつけるなかで文字の便利さに気づき、学習を始めたが、イングランドの学校に通ううちに天然痘で客死した[46]。
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